手話を学んで2006/07/06 23:33:43

 手話ソングダンスグループ・フライングハンズに入団して3年がたった。初めての海外公演に臨むつもりで、今回はサポート兼応援のつもりでいろいろ協力したりしてきたのだが、実にバカバカしいことのために、フランスへ行けなくなってしまった。ここに書くのも恥ずかしい情けない、怒りを隠しきれない思いがからだじゅうを駆け回ったこの2日間だった。理由? とても公にできないこと、ただひとつ言えるのは体調不良ではないことだけ。今日も卓球でからだを動かしてきたのだ。

 で、あきらめて別予定で、今年の夏休みを送ることを考えている。

 さて不機嫌な思いを書くのは心身によくないだけではなく、社会に向けた発信であるこのブログの目的からもそぐわない。このフランス行きの話はもうやめて、切り替えて明るい話題にしよう。

 古寺蛙鳴(ふるてら・けいめい)という1942年、千葉県匝瑳市生まれ、同市在住の作家がいる。自身も突然の中途難聴という経験をもとに、失聴者と健常者の交流を描いた小説を執筆しているという。
 その作品「心輝く時」を購入して読んだ。

 作品自体は文章に硬軟があり、ストーリー進行がやや急すぎるきらいがある。たとえば表題作「心輝く時」では主人公・和夫が市民会館前を通りがかったときにみた「初級手話講座」の看板にひかれて手話を学んだというが、看板を見てすぐに学びたいと思うだろうか。和夫は聞こえる人なのだ。家族に障碍者がいるわけでもない設定だ。さらには、涼子という難聴のある女性にひかれ恋するのだが、手話講座に入って間もないときに恋するように読める。いくらひと目ぼれでも、すぐに恋するだろうか。障碍者と健常者、聞こえる人と聞こえない人のあいだに恋愛が成り立たないとは思わないが、急すぎて、読者からすると置いてきぼりにされたような、もっとふたりのあいだに葛藤や苦悩や、問題がなかったのかという気もする。ロミオとジュリエット以来、恋愛に壁や困難がつきもの、障壁が恋を熱く燃やすものにさせるとはいえ、いくらなんでもこの小説では不自然に感じられる。わたしの実生活でもそういう出会いと恋愛があったら、どんなにいいかなと思うが。これは半分冗談。

 しかし中途難聴者の経験が生かされている部分もある。
 たとえば手話についてのくだりだ。

 ろうあ者の会話は日本手話が圧倒的に多い。文法や形よりも実用性に富み、意味が通じることが大事だという。言葉ではなく意味で話す。具体的に説明すると、ろうあ者と聞こえる人では、同じ経験でも感じ取るイメージが違う。音を聞く経験がないために、見ることだけからのイメージが大きいのだ。しかしわたしも含めて中途難聴者の使う、日本語対応手話(本小説では「日本語手話」)は、文章通りに手話を表現する。聞こえなくなるまでに言葉を覚え文章表現を身につけているからだ。筆者である古寺蛙鳴さんは、日本語手話は表現に乏しいと書いておられる。

 先日手話サークルで手話表現を覚え、みんなの前でやってみたときのこと。
 手話ソングダンスをやっているからだろうか、流れるような踊るような表現になって読み取りにくいと言われた。もっとゆっくりはっきり表してほしいとも言われた。
 う~ん。わたしはどうも、全身をフルに使って表現するのがくせになっているようだ。というか、からだを目いっぱい使って表現するのが合っている。

 どちらがいい悪いではない。日本手話と日本語手話にもいえる。
 しかし、視覚に訴える言語である手話である以上、伝わらなければ意味がない。
 いい悪いではなく、伝わるようにわかってもらえるようになりたい。

 フランス行きの話はもう話すことも書くこともしない。
 しかしいろいろなことを考えさせられた。
 これからどうなるだろう。わたしはフライングハンズを続けられるだろうか。必要とされる存在でありたい。もっともっと練習してうまくなりたい。ステージに立ちたい。

 体調というよりは心理的な部分、こころのコントロールが難しい。
 人間関係などでうつ状態に引き戻されそうな苦しみを感じる。

 けれどわたしには目標がある。
 手話を使った表現、芸術活動は一生かけても続けていきたい。