出生率と自殺2006/06/01 23:55:57

 信じられない出来事が相次いだ5月から、新しい月が始まった。
 少しずつ気持ちは戻ってきたけれど、今日は仕事中に何度も目が泳ぎ、めまいを感じた。急に暑くなってきたからだろうか。

 さて今日の新聞夕刊。
 対照的な記事が2つ。まず、2005年一年間の出生率が1.25と5年連続して最低を記録したという。0.04ポイントの大幅な低下で、少子化がいっこうに止まらないことを示している。
 もうひとつは、やはり2005年一年間の自殺者が3万人を数えた。3万2552人で、2004年より227人の増。これも8年連続だという。

 この二つの出来事は、関係ないようにみえてその実、わたしたちのこの国の姿を浮き彫りにしている。ひとことでいうなら生きやすい、生きる希望を抱いて生きていける国だろうかということだ。

 わたしもうつ病をわずらって自殺を考えたことがないわけではないし、この年で未婚ということから、出生率低下の原因のひとつである晩婚とも無関係ではない。
 このふたつの出来事をみると、背景には「経済問題」「生活環境」「労働」というキーワードがみえてくる。結婚しても子どもを育てられる経済力。もちろん個人の努力はいうまでもないけれど、個人でできることには限界がある。フリーターやパートではとても結婚は望めずまして子育ても難しい。若い人にとどまらずいまは30代でもフリーターやパート、アルバイトという人がいるようだけれど、その是非はさておき、生きる希望をもてない社会はどういう社会だろう。格差というけれど、はい上がろうやり直そうという意欲をそぐような社会システムではいけない。

 出生率と自殺。この問題は表裏一体ではないか。
 生きたくても生きられないいのちがこの星にはたくさんある。一方で日本のこのありようは、おかしい。
 少なくとも、生を終えるときに、生きてきてよかったといえるような社会でありたい、人生でありたいと思う。

こころを込めて歌いたい2006/06/03 23:57:12

 久しぶりに手話ソングについて書く。本当はこのテーマを書きたいがために立ち上げたブログなのだけど、なぜかスポーツがやたら多いものになってしまった。

 さて今日、都内で開かれた、難聴者団体主催の講演会に出席した。
 講師は手話通訳士でもある方で、手話ソングも話題になった。

 手話はいまでこそテレビで取り上げられるようになったけれど、昔はろう者にとっても難聴者にとっても、聞こえる人からみれば手話を使っていること自体がすでに差別の対象とされてさえいたのだ。なぜか。いくつも理由がある。たとえば、社会に出るときに聞こえる人たちと互角にやっていけない、コミュニケーションの上で難聴者やろう者だけが通じる会話をしては、聞こえる人たちのなかに入っていけないから。手話をつかうとみっともないという理由にさえなっていない理由で、手話を使うことが禁じられていた時代もあったのだ。

 しかし、手話を使っていくということはコミュニケーションだけではなく、自分を表す、こころの呪縛を解き放す上でも重要だ。手話を使い歌い、話をする。それがどんなにわたしたち聞こえない人にとって、こころを解き放つことになるか。

 手話と日本語では、異なることがいくつもある。
 手話は視覚言語である。日本語はそのまま音声言語だ。
 この異なる言語を組み合わせる手話ソングダンスは、なにが大事だろう。
 
 気持ちを込めること。楽しいときは楽しく、悲しいときは悲しく。気持ちがこもっていないと伝わらない。
 手だけというと抽象的だけれど、気持ちを手のひらに込めていないと伝わらないのではないだろうか。見てもらうための言語なのだから、正確にゆっくりはっきりと、そして気持ちを込めて。

 このブログのタイトル「やさしい愛の手のひらで 今日もわたしは歌おう」。
 優しさ、楽しさ、苦しさ、いろいろなこころからあふれる気持ちを込めて歌いたい、と思ってつけた。
 そう、手話で歌うということは、こころを込めて歌いたいということ。

ひとのこころ2006/06/05 23:21:17

 人のこころはお金で買えると豪語した社長がいた。
 ぼくは人様のお金を預かるファンドマネジャーだと言った人がいた。

 思うのだけど、お金ほど人のこころを惑わし狂わせるものはない。
 そしてお金に目がくらむほど、顔の表情も目つきもだんだん醜くなってくるのではないだろうか。

 欲望は生きている以上ついてまわるし、避けられないものだけれど、人の顔を美しくすれば醜くもするような気がする。

 いったいこの国はどうなってしまったのだろう。
 まじめにひたむきに生きている人が大切にされず、金もうけやあぶく銭で生きることがまっとうだと思われるようなこの国のありさまは、醜くてしょうがない。

自らの描いた夢に向かって精いっぱい歩き続け努力すること2006/06/07 23:21:20

 仕事を終えて社を出てすぐに目に映ったのは夕焼けに照らされた雲。
 こんなきれいな夕焼け雲を見ることができるのはすばらしい。
 生きているからこそ、美しい風景を見ることができるのだ。

 さて今日、絵門ゆう子さんの遺作となった「がんとゆっくり日記」をいただいた。
 まだ読んでいないけれどこの本の校閲を通して生きるということについて考えさせられた。

 もう一人、12年前のF1サンマリノ・グランプリのレース中に事故で亡くなった、アイルトン・セナも思い出した。

 彼の遺したいくつかの言葉を思い出す。

 「理想を語ることは簡単だが、自ら実践するのはすごく難しい。だからこそ、とにかく、どんな時でも、ベストを尽くして生きなければならない。その結果、うまくいく時もあれば、そうでない時もある。間違いを犯すこともあるだろう。でも、少なくとも、自分自身に対しては誠実に、そして、自らの描いた夢に向かって、精いっぱい生きていくことだ。」

 そう、わたしもまだまだ失敗や過ちや、うまくいくときがあれば成功に結びつかないときもある。いろいろあるけれど、そのいろいろあるということが、いつかは実を結ぶことにつながるはずだし、試練を与えられているからこそ、成長成熟に結びつくのだと確信したい。

「なぜ人生には、不幸なことが起きるのか、それを理解するのが最も難しいことなんだ。愛する友達や家族を亡くせば、なぜ、自分が、こんなに辛い目にあうのかと思うだろう。でも、それは僕ら人間にはわからない。それを理解するには、人間の心はあまりにも小さすぎるんだ。だから、僕達は、ただその苦しみに耐え、悲しみを乗り越えるために、より強くならなければならない。しかし、数年後、数十年後になって、その時の悲しみの意味がわかることもある。」

 真理子さんを思い出す。
 たしかにこんなことになって、ほんとうにつらくやりきれない思いをいまだ処理できない。しかしセナがいうように、より強くならなければならない。何年かかるかわからないけれど、時が過ぎて、悲しみの意味がわかるようになることもあるのだ。

「人間は、ほんの一瞬で鏡の向う側に倒れ込んでしまうこともある、と自覚している。」

 まさか、としか思えないことがある、それも一瞬に。
 それがいつなのかわからないけれど、いつかはくるのだ。

 10月に予定されている朗読の発表会。
 手話つき朗読も考えたけれど、今回は初めてなのだから手話はやめて、声だけの朗読にする。
 で、絵門ゆう子さんの童話「うさぎのユック」か、阿部牧郎さんの小説「地球交響曲 小説ベートーヴェン」のどちらかを引用してやってみようと思う。

 成功するか失敗に終わるかわからない。
 しかしできることはただひとつ。セナも言っているように、自らの描いた夢に向かって精いっぱい歩き続け努力すること。
 自分が変わればみんなも変わる。変化成長成熟した自分を信じていこう。

興奮の1カ月2006/06/09 23:59:36

 小学校時代に少しだけサッカークラブに入ったことがある。といってもあのころはいまとは違って、運動中に水を飲むなどは厳禁。隠れて飲もうなどしたらたちまち周囲から目の敵にされたものだ。
 いまはサッカーフィールドをみると、隅にドリンクボトルが置いてある。選手個人の好みや体調などを考慮して調合されたとはいえ、運動中に水を飲むことが許されるとは、時代が大きく変わったなあと思う。

 そう、単一種目としては最大規模のイベント、ワールドカップサッカーがいよいよ始まる。

 日本手話では、右手親指と人差し指で球を意味する丸をつくり、左手でその球をけるしぐさ。アメリカ手話 American Sign Languageでは、左手を斜めに立てて、右手で左手をけるように表す。サッカーの表現をとっても、日本語とASLでは違いがあってなかなかおもしろい。

 アメリカではフットボールというとAmerican footballしかないのだけれど、1994年アメリカで開催された第15回ワールドカップ大会を契機に、少しずつ力を入れるようになり、FIFAランクで7位という上位につけている。しかしプロリーグはそれほどお客さんが入るわけではないし、プレーするのもほとんど中南米系が多い。中南米系の人たちはそれでも、4大スポーツ、とくに野球に力を入れるから、やはりまだまだマイナースポーツの域を出ないのが正直なところだ。しかし日本よりランクが上というのはさすがスポーツ大国ゆえだろう。

 日本はどうなるだろう。
 1次リーグを突破できれば御の字。前回は日韓共催で地元の利があったからベスト18まですすむことができた。今回はまったくのアウェー。もし前回以上の成績を挙げることができたら、それこそ今年前半の大きなニュースになることは間違いない。

 フライングハンズのレパートリーにもなっている「翼を下さい」は、1998年第16回フランス大会の大陸予選で日本代表のサポーターソングになった。
 多くの人の夢を希望をのせて羽ばたく翼のように。

 興奮の1カ月が始まった。

今年の夏は………?2006/06/11 21:41:15

 昨日午後3時30分から午後8時まで卓球のひとり練習。
 自分だけでやるのは甘さをつくってしまいそうな半面、周囲を気にせずに練習できるという利点もある。しかしまだまだだな。もっともっと練習が必要だ。

 さて梅雨入りした東京は、ここ数日肌寒い天気が続いている。
 今日も半そでで街を歩いた。若い人はそう寒さを感じさせない、平気で肌を露出した服装だけれど、お茶を飲むために入ったいつものお店で「寒くない?」ときかれた。くしゃみを何度もしたのを聴かれたらしい。

 クールビズというわけで、早く乾くポロシャツやワイシャツなどがお店に並んでいる。べたつかない素材の服など、夏本番に向けて売り出そうとしている。
 けれどどうだろう、こんな涼しい天気が続くと、本当に夏がくるのか? と疑問に思う。24度~25度の気温が続いて、野菜などの出来具合も影響が出ていると聞く。

 ワールドカップサッカーをきっかけにテレビを買い換えようと、電器店は新型テレビをさかんに売り込んでいる。その一方でこの天気が続くと、クーラーなど、売れるだろうか。気をもんでいるのはメーカーも同じに違いない。

 ともあれ、今週もすっきりしない天気が続きそうで、気持ちもすっきりしない毎日だ。

ベートーベン2006/06/13 22:44:08

 数年ぶりに阿部牧郎さんの「地球交響曲」を初めから読み続けている。10月の朗読のために再読している。来月に迫ったフランス旅行の機内でもたぶん読むだろう。時間があれば、ウィーンやベートーベンの生地ボン、彼が遺書を書いたハイリゲンシュタットなどを訪れてみたいのだけれど、それはいつかの夢にとっておこう。

 ベートーベンがベートーベンである限り、何ものも縛ることができない。そう小説のなかで語られている。
 いま以上に障害者への差別や偏見があからさまだった19世紀にあって、わたしと同じ重度聴覚障害者であったベートーベン。加えてついに家族をもち愛する人と結ばれることはなかった。死後に発見された手紙から、意外な女性関係があったことが知られるようになったが、生前は音楽家としての知名度はあっても結婚したいと思うような人とはめぐりあえなかった。
 
 わたしもどうだろう。
 わたしがわたしであり続ける限り、何ものもわたしを束縛することができないのか。
 聞こえないままでいい、再発してきた抑うつ状態のままでいい。

  ベートーベンを敬愛した指揮者で音楽家の岩城宏之さんが今日午前0時20分、心不全のため亡くなられた。73歳だった。
 ステージの上で死にたいと口にされ、昨年末、ベートーベンの交響曲1番から9番までを続けて演奏指揮された。今年も年末に同じプログラムを予定していらしたそうだ。

 さまざまな不遇と試練のなかで雄々しく生きた、ベートーベン。
 朝比奈隆さんと並んでベートーベンを敬愛した岩城さん。

 いくつもの試練があるけれど、試練をへてより強く雄々しくなることができたら。

前を向いて2006/06/15 23:47:37

 またうつがぶりかえしてしまった。
 前回の書き込みにコメントをいただいたのだけれど(どなただろうね?)、冷静にふり返ってみると、自分の存在価値がないのではないかという思い不安がひとつ。そしてこれからどうなっていくのだろう。どうなってもいいやという投げやりな心境がひとつ。

 黄門さまにきくまでもなく、人生は楽と苦がセットになってついてまわるものだ。苦はその人が乗り越えられると踏んだから神さまが与えてくださったのだとも思える。

 最初に挙げたふたつの思いに続けて。
 孤独なんだろうな。手話ソングや難聴者の集まりでは笑顔でいられるのだけれど、職場では笑顔でいられない。

 いつまでもこの苦しみが続くと思わないほうがいいのだろう。

 もうちょっと楽に、いや前向きになろう。見ている人がどこかにいるのだと信じていくしかない。

 このブログをいつも読んでいる方がいらっしゃるとしたら。
 ごめんなさい、もうちょっと明るい話題にしますね。

無理をして荒波にあらがってもしょうがない。2006/06/17 22:32:57

 サッカーのワールドカップは熱戦が続き、明日は1次リーグ進出をかけた対クロアチア戦。
 テレビはサッカー一色。批判するつもりはないけれど、ふだんそれほど関心を持っていないようにみえる若手お笑いタレントさんをひっぱり出してバラエティー番組でも、どうやったらクロアチアに勝てるか、といったことを語らせている。なぜかそばで聞いている女性タレントの胸の谷間を強調したドレスも日本代表と同じ、青色。そこまでするか?
 う~ん。
 ひねくれもののわたしは、ついつい嫌気がさして、今年1月のNFL第40回スーパーボウルのビデオを見た。サッカー一色になるのはかまわないけれど、その場しのぎのような、時流に流されてしまうような一過性の扱いは好きではない。というわけでやっぱりごめんなさい、フットボールというとわたしはアメリカンフットボールしかないんです。ジャージもサッカーではなくアメリカンフットボールのもの。で、ボールを投げてみたくなる。ホントにひねくれものだ。

 セキセイインコと遊んで、ケージから出して自由に飛ばせたり遊ばせたりして過ごす。オスのペテロのほうは小さいときから飼いならしているので手の上に乗せても問題ないけれど、メスのマリアはまだ慣れないのか、かみつくようだ。それでも今日、片足を手の上に乗せるようになってきた。ゆっくりでいいから慣らしていこう。生きものなのだからこっちの思うようにはならない。時間をかけていけばいい。

今日のサッカー試合の記事で、丸いボールをたとえに、ある国の選手がこんなことを言っていた。「いいときと悪いときがある。それが人生だ」
 そう、思うようにならないんだよね。
 なんでもそうだけれど。

 うまくいくときがあればなかなかいかないときもある。無理をして荒波にあらがってもしょうがない。
 なに、いつかは晴れるときがくるよ。

 今晩のメニュー。仔牛のステーキとライス。
 うん、なかなかおいしい。

 ではおやすみなさい。

気分を変えて2006/06/19 23:41:46

 ひょっとしたら今年前半で一番イライラした出来事かもしれない、ワールドカップサッカードイツ大会1次リーグ、クロアチア対ジャパン。フィールド上の体感温度が40度近いという猛暑と、ここで負けたら1次リーグ敗退になる状況のなかで、ともに未勝利のクロアチアとジャパン。
 まさに消耗戦の戦いは、結局0-0のスコアレスドローで終わった。

 怒り心頭だったのはシュート。何本もいいものを打ちながら1点もとれなかったことがまず頭に来る。野球にたとえるなら守りがよくてもホームランひとつ打てない打線のようなもの。守りがいくらよくてもサッカーは点を取ってなんぼ。勝たなければ意味がない。ましてこの試合は勝つことが必要だっただけになおさらだ。

 結局今日一日はイライラのし通しだった。
 1次リーグ最終戦が強豪中の強豪、ブラジル。日本時間で23日未明、午前4時からの試合は、どうなるか。試合を見るために前日早めに就寝するか。

 さて今日のメニューは仔牛のステーキとライス。前回は焼いた肉をご飯の上に盛りつけるだけだったけれど、今回はチャーハン風につくってみた。失敗したと思うのは、お肉と野菜を炒めてからご飯を炒めるべきなのに、野菜を炒めたのは肉が焼けてから。基本がなっていないな。
 ポテトサラダを付け合わせにしたけれど、まあまあそこそこ、味はなんとかなるでしょう。

 そうやって自分の世界をつくっていけば、つらいときがあっても気持ちをコントロールできる。
 今度はもっとおいしいメニューをつくってみたいね。