障がい者であり被差別者から「差別語」を考える ― 2011/02/17 23:03:22

差別用語は追放すべきか ハックルベリー新版めぐり論争
http://www.asahi.com/international/update/0215/TKY201102150445.html
とても興味深い、考えさせる記事だ。
お読みになられた方はお分かりのとおり、中学校の英語テキストにも使われている、マーク・トゥエインの『ハックルベリー・フィンの冒険』だが、もともとの、つまり発表されたときに使われていた言葉には、現代では差別語として扱われている表現がいくつもある。それらを「差別用語だから」といって削除したり追放したり言い換えたりするべきか、(死亡したとはいえ)著作者であるマーク・トゥエインを尊重して原文どおりにすべきか、という論争だ。古くて新しい「差別と表現」をめぐる論争である。
なぜ考えさせられたかというと、まずわたしも障がい者であり被差別者であること。
次に、礼拝でわたしが使っているのは、文語体聖書であり、そのなかにも現在では「差別語」として言い換えたり書き直されたりしている表現があるからだ。たとえば新約聖書を例にしよう。障がいがあるのは因果応報でも家族の責任でも罪を犯したからでもない。神のみ業があらわれるためである、とイエス様が語られる、9章からみよう。
「イエス途往(みちゆ)くとき、生れながらの盲人(めしい)を見給(みい)たれば、弟子たち問ひて言ふ「ラビ、この人の盲目(めしい)にて生れしは、誰(たれ)の罪によるぞ、『己のか、親のか』」。新共同訳ではこうだ。「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか、それとも両親ですか』」。(9章1~2節)。
ほかにも文語体では「足萎え」や「つんぼ」という表現も出てくる。そして障がい者団体やキリスト教団体のなかから、聖書に出てくるこれらに対して、「おかしい」「差別である」「教会は差別を是認しているのか」、などという意見からこれまでにも何度も論争があり、聖書の翻訳にも反映されてきた。そしてわたしも、ここでもほかのところでも「障害」とは書かず、「障碍」「障がい」と書いている。だから差別語についてはわたしなりに敏感である。
記事にあるように「ニガー」(nigger)「インジャン」(Injun)という用語もある。前者はアフリカ系、平たく言えば黒人を、後者は先住民であるインディアンをさす。これらも現代アメリカでは使われていない。ちなみにNFLのワシントン・レッドスキンズのチーム名、Redskinsも何度も差別語であると、先住民団体から訴えられている。
古くて新しい、差別語の問題。わたしも被差別者であり、使っている聖書には差別語がある。けれど全体を通して文語体に魅力を感じているから読んでいる。
ニューヨーク・タイムズ紙は今回の出版について「無菌化」と批判した、と、さきの記事にはある。
差別語だから排除するとしたら、インフルエンザだから、エイズだからと排除してあたかも自分たちの周りには感染もウイルスもないかのようになってしまう、と。
思い出すのはマスクだ。マスクの効果も否定はしないが、マスクをつけなさいとかマスクをしなければと強迫観念に陥って、自分以外の周囲から身を守ろうとするのは不自然でありこっけいでさえある。医師や病院から言われたのならまだしも、そうではないのにつけるのは極端に自己防衛、清潔さ、無菌になろうとするあまりのこっけいな姿だ。
あえて、わたしが差別語のある文語体聖書を読むのは、神の言葉であるとともに人間が訳した聖書、その翻訳の限界や人間の弱さを覚え、聖書が書かれた時代や翻訳された時代(ということは過去だけではなくこれからも、だ)には、障がい者が差別されていたのだということを知るためである。
もし差別語を排除したいなら、その前段階として、差別語が存在していたこと、被差別者がいたことをも教え教わること。それなしに差別語をなくそうとするなら、それこそ「無菌化」であり差別や社会の不正義を自分とは関係のないこととして理解することで終わってしまう。
差別語を考えるなら、そこまでやらなくてはいけない。
http://www.asahi.com/international/update/0215/TKY201102150445.html
とても興味深い、考えさせる記事だ。
お読みになられた方はお分かりのとおり、中学校の英語テキストにも使われている、マーク・トゥエインの『ハックルベリー・フィンの冒険』だが、もともとの、つまり発表されたときに使われていた言葉には、現代では差別語として扱われている表現がいくつもある。それらを「差別用語だから」といって削除したり追放したり言い換えたりするべきか、(死亡したとはいえ)著作者であるマーク・トゥエインを尊重して原文どおりにすべきか、という論争だ。古くて新しい「差別と表現」をめぐる論争である。
なぜ考えさせられたかというと、まずわたしも障がい者であり被差別者であること。
次に、礼拝でわたしが使っているのは、文語体聖書であり、そのなかにも現在では「差別語」として言い換えたり書き直されたりしている表現があるからだ。たとえば新約聖書を例にしよう。障がいがあるのは因果応報でも家族の責任でも罪を犯したからでもない。神のみ業があらわれるためである、とイエス様が語られる、9章からみよう。
「イエス途往(みちゆ)くとき、生れながらの盲人(めしい)を見給(みい)たれば、弟子たち問ひて言ふ「ラビ、この人の盲目(めしい)にて生れしは、誰(たれ)の罪によるぞ、『己のか、親のか』」。新共同訳ではこうだ。「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか、それとも両親ですか』」。(9章1~2節)。
ほかにも文語体では「足萎え」や「つんぼ」という表現も出てくる。そして障がい者団体やキリスト教団体のなかから、聖書に出てくるこれらに対して、「おかしい」「差別である」「教会は差別を是認しているのか」、などという意見からこれまでにも何度も論争があり、聖書の翻訳にも反映されてきた。そしてわたしも、ここでもほかのところでも「障害」とは書かず、「障碍」「障がい」と書いている。だから差別語についてはわたしなりに敏感である。
記事にあるように「ニガー」(nigger)「インジャン」(Injun)という用語もある。前者はアフリカ系、平たく言えば黒人を、後者は先住民であるインディアンをさす。これらも現代アメリカでは使われていない。ちなみにNFLのワシントン・レッドスキンズのチーム名、Redskinsも何度も差別語であると、先住民団体から訴えられている。
古くて新しい、差別語の問題。わたしも被差別者であり、使っている聖書には差別語がある。けれど全体を通して文語体に魅力を感じているから読んでいる。
ニューヨーク・タイムズ紙は今回の出版について「無菌化」と批判した、と、さきの記事にはある。
差別語だから排除するとしたら、インフルエンザだから、エイズだからと排除してあたかも自分たちの周りには感染もウイルスもないかのようになってしまう、と。
思い出すのはマスクだ。マスクの効果も否定はしないが、マスクをつけなさいとかマスクをしなければと強迫観念に陥って、自分以外の周囲から身を守ろうとするのは不自然でありこっけいでさえある。医師や病院から言われたのならまだしも、そうではないのにつけるのは極端に自己防衛、清潔さ、無菌になろうとするあまりのこっけいな姿だ。
あえて、わたしが差別語のある文語体聖書を読むのは、神の言葉であるとともに人間が訳した聖書、その翻訳の限界や人間の弱さを覚え、聖書が書かれた時代や翻訳された時代(ということは過去だけではなくこれからも、だ)には、障がい者が差別されていたのだということを知るためである。
もし差別語を排除したいなら、その前段階として、差別語が存在していたこと、被差別者がいたことをも教え教わること。それなしに差別語をなくそうとするなら、それこそ「無菌化」であり差別や社会の不正義を自分とは関係のないこととして理解することで終わってしまう。
差別語を考えるなら、そこまでやらなくてはいけない。
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