じかに教わることほど、生きた教材はない2011/02/04 22:20:22

いくら辞典や本で学ぶことはできる時代だけれど、生きた言葉はやっぱりその人からしか学べないものだ。

今日用事があって、いつも行く都内の福祉会館へ行った帰り、ロビーでろう者の人たちと話をした。
そのなかで「km」「cm」の表現が出た。

中途難聴者は空文字、空間に書いた文字でそれぞれ「km」「cm」と表す。ろう者は人によって違うけれど、空間に書いた文字の人もいれば、左手人差し指を立ててそれをkの縦の字に見立てて、「く」を右手で空文字で書いて表す人もいる。「cm」ならkではなくcの字で表す。
つい最近わたしが購入した辞書では左手で指文字「k」、「c」、右手親指と人差し指で小さな丸をつくりそれを目元から向こうへやる。つまり目元から向こうへやるのは「遠い距離」という意味を込めている。
だが、この表現は今日お会いしたろう者に聞いたら「おかしいよ」というのだ。

「世紀」という表現がある。
両手とも、人差し指と親指で「c」のかたちをつくり、利き腕のほうを動かさず、反対の手を横にずらす。片手の位置を動かさないのは「いま」「現在」という意味である。この応用で、「18世紀」「20世紀」というときは動かすほうの手で数字を表してから「世紀」を表すのだそうだ。

聞こえる人の世界でも、言葉はまちまち、日々変わっていく。
まして手話は「毎年辞書に載ったり発表されたりしたなかで、使われ残っていくのは10%あるかないか」だと、わたしの先生は教えてくださった。
手話も日々変化していく生き物なのだ。いまこうしてDVDだ本だと手話関連の学習教材がたくさんあるが、わたしの先生が手話を学んだいまから30年前は、そんなテキストなどなく、直接ろう者に聞いて覚えるしかなかったのだ。

やはり言葉はそれを使っている人からじかに学ぶに限る。
じかに教わることほど、生きた教材はない。