本来の信仰は2015/01/24 23:31:56

本来の信仰というのは、他者を抑圧したり自分たちの正義を押し通そうというものではないはず。
イスラムはそんな宗教ではない。アラビア文字が読めないわたしだがそれでも世界3大宗教故に、なぜ人をひきつけるのかということについては、そこに人のこころに安らぎをもたらす何かがあるからだと思う。

しかし、イスラム国はそうではないようだ。
たしかに国家制度をつくりあげているように見えるけど、そこには抑圧と恐怖しかない。

イスラムではなくイスラム国に対してわたしは理解も共感もできない。

寛容がなくなってきた社会2015/01/24 23:51:43

シリアで「イスラム国」に人質とされた日本人男性2人。
72時間以内に200億円以上という身代金を払わなければ殺害するという要求が出されて、期限とされた昨日14時50分を過ぎたいまも、まだ自体に大きな進展はない。

事件についてはテレビや新聞でも大きく報道されているが、気になるのは「自己責任」と言って、シリアに入った2人への非難批判がネット上でで聞かれることだ。

いわく、「行くなと言ったのに行ってこういう目にあったのだから殺されてもしかたない」「身代金は自分の責任で払え」「などというものだ。

まず、そういう自己責任論は、一見正当な筋論であるかのように見えるが、主張している人たちは当事者ではなく、高みの見物というか他人事として非難しているだけである。極論誤解を承知で言えば、野次馬見物とかわりない。
もうひとつは、自己責任といって正当化しているようにみえるがはて、当事者家族を前にしてもそれを言えるだけの覚悟があるか、という問いである。
もし当事者を前にそれだけのことを言っても納得してもらえる理解してもらえる自信があるなら、それを言ってもいいが、自分があたかも彼らとは違う、勝ち組であるなどと、または責任を他者へ押しつけて我関せず、というのであれば、軽々しくは言えないはずだ。

もちろん2人は軽率と言える面も見方によってはありえる。けれど、それをたやすく批判できる人がどれだけいるだろう。言い換えれば自己責任を主張する人たちは、彼の地へ言った2人がどのような思いで行ったのかにいま一度思いをいたしてほしい。仮に軽率のそしりを免れないとしても、行くにはそれなりの思いや覚悟があったはずである。それを、自己責任という一見わかりやすい言葉で断罪、二分してしまうのは、余りにも単純すぎやしないか。そんなに単純に理解できるほど、自己責任を言う人たちは、今回の事件を理解しているのだろうか。

いまはあまりにも複雑すぎてわかりにくい出来事が多い。その分かりにくさを追求して考えていこうという人がいる一方で、分かりにくさを見つめず単純な図式でとらえようという人たちや思考もまた多い。

結論を言えば、わたしは安易な自己責任論には、とても賛成できないし、自己責任ばかり言っていては社会がなりたたないと思う。

寛容さがなくなってきた社会ほど息苦しい、生きていくのにつらい社会はない。それは彼の地で2人を人質にしている、自らをカリフと名乗り、イスラムの戒律や宗教の極端な解釈をもって人々を抑えつけようとしている過激派、イスラム国の人々にも言える。