2015年12月18日 はたしてどうなるだろう2015/01/01 23:15:18

今日の朝刊に「スター・ウォーズ フォースの覚醒」の全面広告が出ていた。すでにここでも書いたように、日米ともに今年12月18日(金)と公開日が決まっている。

前回記事を書いた直後に、ルーカスフィルムから映画の一部分がネット上で公開され、あっというまにロゴブロックをつかった特撮がでるなどファンは盛り上がっている。10年ぶりの「SW」、しかもマーク・ハミル、キャリー・フィッシャー、ハリソン・フォードの3人がルーク、レイア姫、ハン・ソロそのままで出演するとなるともう期待するほかない。

でも。
ちょっと気になるのは、20世紀フォックスがディズニーの傘下になったこと。
サーチライトに照らされた「20th FOX」のロゴの後の静寂ののち、ファンファーレとともにあのタイトルミュージックと巨大なタイトルで始まるのが「スター・ウォーズ」シリーズの醍醐味といっていい。いやあれがないと、ワクワクしない。
だが配給がウォルト・ディズニー・スタジオになったことで、はたしてどうなるのだろう、というのが不安材料だ。

いずれにしてもまた雑誌や新聞などで大々的に特集が組まれることだろう。
さすがに公開初日に劇場に並ぶことは難しいかもしれないが、できるだけいまからその時を楽しみにしている。

今年もここに信仰、音楽、スポーツ、手話、世相雑感などいろいろ書きつづっていきたい。
みなさまどうかよろしくお願いいたします。

いつか来る生の終わりから天国につながる道2015/01/02 23:55:12

昨日妻と一緒に小岩のアッセンブリー・オブ・ゴッド教団の正月年頭礼拝に参加してきた。うーん。結論を先に言うと、元日から早々、とても疲れた。というほかない。

賛美はいままでにも書いたように、歌詞もメロディーも同じフレーズの繰り返しの曲と、独りよがりな歌詞が多くてこころに響いてこなかった。
まずかったのは牧師の説教が長く、45分以上あっただろうか。しかも聖書のなかから2、3の箇所を引用はしたけれど一体何を語りたいのかという点で的が絞れていない。手話通訳と妻がとったメモをみながら理解するようにつとめたが、何を言いたいのかがよくわからない。聴衆も時折船を漕いでいるのをみかけた。
手話通訳も2人で分担したがかなり疲れたのではないだろうか。あれだけの時間を費やすのならもっと手話通訳士を増やすなり工夫するなりしないと、手話通訳士にも負担がかかりすぎる。礼拝を通して、正直言って疲れただけで、聴いていて得たものがあまりにもなさすぎ、というのが実感だ。おかげで近くのスーパーマーケットで整体を受けてもまだ肩こりが治らず、寝るときに目の疲れを取るためのアイマスクをつけてやっと、首すじから肩にかけてのコリや疲れがおおよそとれたありさまである。

一夜明けて今日。
午後に浅草へ足をのばして、落語の着物を買ってきた。地味めにみえるが帯などを工夫すれば映えるかもしれない。
友人にお願いしていた、昨年のコスモス朗読会の動画に字幕をつけていただいた動画をメールで見せていただいた。とてもいい仕上がりの動画になっていて妻と一緒にみて「これはいい!」と手をたたいて喜んだ。どうもありがとうございました!

最初に書いた、今年最初の年頭礼拝であまりにも疲れてしまい、かえってよくなかったせいか、着物を買ったあとに渋谷で観た映画で少しは気分が晴れた。

『天国は本当にある』(原題 Heaven is for Real)
4歳の男の子が人生を変えるような驚異の経験をし、その父である牧師が、息子の経験と発見をともに分かち合おうとする勇気と信念の探求を描いた、ニューヨーク・タイムズのベストセラー本の映画化。2014年4月16日に全米2417スクリーンで公開され、9000万ドルの収益をあげたという。

これも正直に言うと、わたしはありきたりの宗教映画だと思っていた。もちろんクリスチャンだから天国の実在を信じているし、いつかはわたしも死ぬ。死んだあとに天国に行けるものと。けれどそれをテーマにした映画、となると話は別で、生死の境で迷う主人公が死を受け入れるとか再生に向かうとか、美しい幻想的な映像で表現されるとか、どう考えても「ウソくささ」満載であり、「宗教の押しつけ」的なものであるものがほとんどだった。だから今回、わたしも妻と一緒に観るけれど、ハナから期待していなかった。原作本ももちろん読んでいない。読みたいとも思わない。押しつけがましいものは同じクリスチャンでも、だ。
だが、この映画がそういったものと一線を画しているのは、正直にありのままを描いているからだ。フィクションのように天国を美しく描写したり空想をたくましくした天国の世界があるわけでもない。あるのは、現実の、わたしたちと同じ、国こそ異なるけど人間の、生きたありのままを描いていることだ。舞台であるネブラスカ州の小さな町にある教会の牧師、トッド・バーポと妻ソンジャ、ふたりのあいだにいるコルトンとキャシーの姉妹。

言ってはアレかもしれないが、日本の教会の牧師とも異なる、ボランティアで消防署に勤めたりソフトボールを教えたりレスリングを教えたり。地域とつながり、人々に溶け込んでいる。説教壇から偉そうに聖書のみ言葉を語るだけではない。
そして生死の境をさまよったコルトンが天国を見た、と語るのを、トッドは受け止められずに迷い、妻も戸惑い、教会の信徒もまたしかり。説教で天国の話をしたトッドを一時は解任して新しい牧師を探そうともした。
けれど、いろんな葛藤や出来事を通して、トッドが気づいたのは、天国がどこにあるとかどういうところかということではなく、わたしたちはすでに天国の片鱗をみている。「赤ん坊の産声、友の勇気、両親の愛などだ」

わたしは天国の実在うんぬんよりも、愛をもって育てられてきたこと、こうしてろうであるわたしを夫として受け入れてくれた妻がいること、ライフワークとして手話ソングや手話つき朗読や手話落語など、与えられたものを最大に生かす取り組みがあること。いつ終わるかわからないけれど、いつかは必ず終わりが来る。その日に向かって精いっぱい生きていくこと。それで十分ではないだろうか。
結論を言えば、ヘンな奇跡だとかいやしだとか手を上げて祈るだとかなんていらない。いい先生がいるよ、いやしの賜物があるよと言われても、わたしははっきりと断る。いまを精いっぱいひたむきに生きること。それがいつか来る生の終わりから天国につながる道なのだ。

映画は予定調和的な部分、ハッピーエンドで終わった演出があったけれども、わたしが予想したような「ウソくささ」満載、「宗教の押しつけ」的なところはあまり感じられなかった。真正面からありのままに描いた作品であると思う。

2015 RICE BOWL2015/01/03 21:58:18

毎年恒例、これを見なくては年越しを感じないまでになった、アメリカンフットボールの全日本選手権、プルデンシャル生命杯 第68回ライスボウルを妻と一緒に東京ドームで観戦してきた。対戦カードは創部30年目で初めてのライスボウル出場となった富士通フロンティアーズと、4年連続10回目出場、2度目のライスボウル優勝を狙う関西学院大学ファイターズ。
妻はこれが4回目になるフットボール観戦。今回はアメリカ人で高校時代にフットボール選手だった(ポジションはセンターだったというがいまはとてもそうにはみえない!!)妻とわたしの共通の友人を招いて、妻に徹底的に(?)アメリカンフットボールのルールと楽しみ方をレクチャーしてほしい、と依頼した。

試合結果は33-24で富士通が初の日本一に輝いた。
http://www.nfljapan.com/headlines/63499.html

この対戦に決まってからわたしは学生側と社会人の力量の差、社会人選手にはアメリカ人がいるなどの差があることを理由に、「ライスボウルでこれだけ社会人優位、力量差が生じると、本当の意味での社会人対学生になりえるのかどうか」と論じ、 「来月3日は正念場と言えるかもしれない」と結んだ。
しかし今回は富士通のスタートクオーターバックが、アメリカ人のコービー・キャメロンではなく日本人の平本恵也だった。一方的な差、ワンサイドゲームではなく、どちらに転んでもおかしくない得点結果だった。
今日の富士通が本来の力だったとは言えない、キャメロンが出ていたらもっとオフェンスが機能していたかもしれない、など「タラレバ」的な見方もあろうが、少なくともこの試合を見るかぎりでは、日本選手権としての試合として十分だったと結論を下せる。

一緒に観戦したアメリカ人に意見をきいてみると、今日の両チームはアメリカでは体格差や戦術などで通用するかどうか、疑問だという意見だったが、わたしは、野球とは異なりQBやWRなどひとつのポジションのみに有力な選手が入っただけですぐに向上するとは思えないけれども、事前準備と入念な対策を講じれば、日本人は持ち前のスピードで対応できるかもしれない。
とはいえアメリカと日本では競技人口も底辺からのレベルアップも大きな差があり、日本は五輪などをみて有力な競技に力を入れていく傾向になるだろう。加えて少子高齢化でどの競技も子どもを対象にした競技人口獲得が生き残りを左右するとも言われている。そんななかでフットボールの競技レベルと競技人口を増やしていくか。
大きな課題を与えられてもいる。

自分を磨くため、自分を高めていくため2015/01/04 22:45:51

三が日が終わり、徐々に、故郷や実家へ帰省していた人たちが戻ってきた。地下鉄もスーツケースをもった親子連れ、カップルなどで混み合いだした。

そんなおり、わたしたちは今年最初の礼拝をそれぞれの教会でまもった。
終わってからわたしは都内へ移動して、買い物を少しと、今月下旬から公開される映画の前売り券を買ってきた。もちろん妻と一緒に観る予定である。

今月のギター教室は事情のために時間を延長してもらうことになった。
個人的に覚えたい曲が3曲。ボランティア仲間と一緒にやりたい曲も3つほどある。
また、明日からアメリカ手話も2015年の学びが始まる。
こうやって学びをもつのは、直接仕事に結びつかないかもしれないが、自分を磨くため、聴こえないからだだからこそ自分を高めていくためでもある。
学べる、身につけられる環境のもとにあることを、ほんとうに感謝したい。

仕事始め2015/01/05 23:25:43

昨日帰ってくる途中、昼時点で地下鉄は正月休みを地方や故郷で過ごした帰省客らで混み始め、いつものようにまたいつもの生活が始まるのだという思いを感じた。
そしてけさ、妻と一緒に朝ドラ『マッサン』を観て一緒に駅まで歩いて地下鉄へ。これから職場へと急ぐ人々で車内はごった返していた。

正月礼拝などで疲れたわりには、休みボケといったことはなく、特別気負うこともなく、仕事に入れた。
2015年はまだ始まったばかり。どんな一年になるのか予測もつかない。いや、いままで以上にこれから先は予測がつかないことばかりだろう。

たしかなのは、昨日より今日、今日より明日がよくなるという夢や希望を語ることが難しいけれど、それでもわたしたちは一日一日をしっかり歩いていくしかない、ということだ。
たしかな歩みを積み重ねていくその先に。かならずなにかいいことがあるのだ。曲がり角を曲がったその先に。

大人は子供に正しい知識を伝えてほしい2015/01/06 23:09:28

耳が不自由というツイッターユーザーのツイートが波紋を呼ぶ 「大人は子供に正しい知識を」と訴える
http://news.livedoor.com/article/detail/9642597/

わたしはネットはこのブログのほか知人のブログを読んだりフットボールなど関心あるテーマのHPをみるくらいで、ツィッターもフェイスブックもやらない。これ以上手を広げると追いつかないどころか逆に追い立てられそうな気がするくらいである。

しかし、今日ネットで見たこの記事。
いろいろ考えさせられた。

地下鉄で知人と手でおしゃべりをしていて(つまり手話のおしゃべりだ)子どもがけげんそうな、よくわからないような顔をしてこちらを見るくらいならまだましなほう。むしろそれをきっかけに子どもが手話に興味を持ってもらえたらうれしいくらいだ。
ツィッター主さんを指して「この人、悪いことをしたから音を取り上げられた」なんて、平気で口にするのはいったい、どういう神経をしているのだろう。誰に、そんなことを言う権利や根拠、理由があるのだろう。

今日、テレビを見ていて妻がボリュームを2ケタ、16くらいに上げたけれどそれでもわたしの耳にはなんにも聞こえてこなかった。補聴器を外すと完全ろうのわたしには、裸耳だけではまったく音が聞こえない。
別に妻はわたしがろうであることを知らずにわざとやったわけではない。
だが社会に出れば、わたしはきれいに話せるから聞こえるものと思われてしまう。そのギャップがわたしを苦しめる。

ツィッター主さんと同じくわたしも、大人が正しい知識を次世代に伝えることと、障がい者と障がいのない人が交流を深めていくこと、学校でも職場でももっと出会える機会をつくり増やしていくことが大事だと声を大にして言いたい。

言葉は変わりつつある2015/01/07 23:07:06

今年最初のアメリカ手話レッスン。

わたしが聴者と一緒に英語を学んでいた中学生時代。
自己紹介できまってフレーズは「My name is~」だった。その名残というか影響が今でも残っていて、周囲の外国人と話すとき、つい出てしまう。
ところが、いまはそんな堅苦しいというかあらたまったような言い方はしないらしい。「Hi,I am~」というようだ。
わたしたちろう者のあいだでも年配者は「わたしの名前は~」ときまって表すが、外国人ろう者はそういう言い方をしないらしい。

語学を学ぶのも、そういう変化を知ることもできて、なかなか楽しい。
実際にアメリカ人ろう者と話をする機会がまだないけれど、いずれアメリカに行ったらろう者と接する機会をつくりたい。
日本の手話だって同じもの。どんどん接していって、はじめはたどたどしく、ぎこちなくてもいいから話しかけていくと、向こうも話そうという気持ちがあるからどんどん話してくれる。

コミュニケーションは、そういうキャッチボールのようなものだ。

洋の東西でのニュース2つ。2015/01/08 23:16:26

http://www.hokkaido-np.co.jp/news/donai/584631.html
北星学園大にまた脅迫文 学生の家に放火示唆か

http://www3.nhk.or.jp/sapporo-news/20150108/4530451.html
北星学園大学にまた脅迫文

http://www.47news.jp/47topics/e/260838.php
【パリ週刊紙乱射事件】  「表現の自由」標的に憤り 宗教めぐる敵対激化

今日起きた、洋の東西でのニュース2つ。
まずわたしは、どんな理由があれ、暴力で自らの主張を通そうという行為には、どんな理由があってもゆるすことはできない。母校だからというだけではない。母校でなくても、学生に危害を及ぼそうというのはもはや暴力である。仮に主張が正しいとしても絶対にゆるすわけにはいかない。卑劣な行為としか言いようがない。

こわいのは、こういった暴力がひろがると、日本に住むイスラム教徒やイスラムに関心を抱く人に対して、同じように暴力を加えてもいい、という、暴力の連鎖が起きることだ。それこそが、過激派の思うツボになる。
暴力を起こした連中と宗教を切り離して、大多数はそんな暴力を望んでいない、ということに目を向けよう。

繰り返す。
どんな理由があれ、暴力や卑劣な行為には断固、拒否するしゆるすことはできない。

わたしもまた、問われている2015/01/09 22:46:47

フランスで起きた、新聞社を襲撃した事件は、その後、5人を人質に立てこもっているという報道が出たり、警官隊と銃撃戦になったという報道も出たり、現地はかなり緊迫した状況にあるようだ。

報道では、イスラム教徒だという兄弟が「殉教したい」などと話していると伝えられている。

しかし、人を殺して、殉教もなにもないなあと思うのはわたしだけだろうか。

宗教のこわさ、自己中心さを感じる。
一神教のキリスト教を信じるわたしもまた、問われている。

邦画にも字幕をつけてほしい2015/01/10 23:12:02

正月も10日が過ぎて、もう「おめでとう」という気分ではなくなったが、そんななか、今年最初の手話サークルの新年会に足をのばしてきた。

その前に午前中、妻と一緒に有楽町で「ふうけもん」という映画を見てきた。主演が中村雅俊さんと浅野ゆう子さんという、ベテラン俳優。
実在する「便利屋」を主題にキリスト教とからめた作品だが、残念なことに字幕がつかなかった。館内の聴衆がところどころで笑っていたようだけど、どこでなぜ笑うのかがわからない。補聴器をつけてはいるが、短い単語くらいのセリフならどうにかわかったけれど長文の会話やせりふはさっぱりわからない。申し訳ないけれど全体の20%もわからないままだった。

そういえば昨日も、やむ得ず電話をかけなくてはならなかったのだが、電話をかけてものの30秒もしないうちに話が聞き取れず、苦労した。
直に顔を見合わせての会話でも、わたしはきれいに話せるから相手はわたしがろうであることに気づかない。むしろ補聴器をつけているぶん、聞こえているものと思ってしまう。
電話もしかりで、いくら説明してもわたしがろうだということが伝わらないどころか、信じてもらえない。受話器から聴こえてくる声がだんだん聞き取れなくなり単なる音にしか感じられなくなり、30秒(分ではない!)ももたないのだ。

できたらこの映画に字幕をつけてほしいなあ。