聞こえる人と聞こえない人が対等に会話を交わせる ― 2010/04/08 23:40:20
火曜日に、会社の社員とその知人に手話を教えたのに続いて、今日は久しぶりにランチタイムで簡単な手話の勉強会も。
どうも気になるのは、手話を使っている人あるいは手話そのものを、まるで不思議なものを見るような目で見る人がまだいるということだ。
正直言うと、わたしも手話講習会に通うまでは、手話を基本からきちんと学ぶ機会がなかったし、手話で会話を交わす人を見てあまりの手のスムーズな動きについていけず見ているだけだった。だから手話を知らない人が手話を見て不思議に思う、それ自体は理解できないわけではない。
けれど先週のある新聞の、都内にある唯一の、ろう児が手話を母語として学べる学校を取材した記事に「小さな手 飛び交う魔法」という見出しがあったのを、とても残念に感じたのはわたしだけだろうか。さらにはそう感じるのはわたしが手話を使えるからだろうか。
その新聞記事にもちゃんと書かれている。「独自の文法体系を持つ手話は子どもが自然に身につけられる『視覚言語』」、「日本語習得の妨げになるとして、ろう教育から長く排除されながらも、ろう者に受け継がれてきた」
ろう者にとって手話がいかに大事で重要な言語であるか、なのに日本語習得の妨げになるという、聞こえる人や社会の側からの一方的な押しつけでろう者から手話を奪おう、取り上げようという教育が続けられてきたなかで、いかにろう者が手話を次代へつないできたか。短い文で正確に書いている。取材した人はちゃんと事実を理解しているのだ。
けれど見出しに「魔法」とあったのがとても残念。ろう学校について正確に書いた記事が、最後の最後に、ついた見出しですべてぶち壊しになってしまったと感じたのだ。さらには手話がまるで不思議なもの、ろう者だけの世界であるかのような、歪んだ間違ったイメージで語られてしまうかもしれない。手話サークルの仲間からも同じ声を聞いた。聞こえる人の立場で書いたからだ、とも言われた。
わたしのまわりにいる、手話を学びたいという聞こえる人たちは、ひとつもそんな間違った歪んだ考えはもっていないのがうれしい。
わたしは声を大にしてはっきり言いたい。
手話は聞こえない人にとって大事な言語である。けっしておもしろおかしい、あるいは不思議なものでもない。
聞こえる人と聞こえない人が対等に会話を交わせる。そのために手話がある。
どうも気になるのは、手話を使っている人あるいは手話そのものを、まるで不思議なものを見るような目で見る人がまだいるということだ。
正直言うと、わたしも手話講習会に通うまでは、手話を基本からきちんと学ぶ機会がなかったし、手話で会話を交わす人を見てあまりの手のスムーズな動きについていけず見ているだけだった。だから手話を知らない人が手話を見て不思議に思う、それ自体は理解できないわけではない。
けれど先週のある新聞の、都内にある唯一の、ろう児が手話を母語として学べる学校を取材した記事に「小さな手 飛び交う魔法」という見出しがあったのを、とても残念に感じたのはわたしだけだろうか。さらにはそう感じるのはわたしが手話を使えるからだろうか。
その新聞記事にもちゃんと書かれている。「独自の文法体系を持つ手話は子どもが自然に身につけられる『視覚言語』」、「日本語習得の妨げになるとして、ろう教育から長く排除されながらも、ろう者に受け継がれてきた」
ろう者にとって手話がいかに大事で重要な言語であるか、なのに日本語習得の妨げになるという、聞こえる人や社会の側からの一方的な押しつけでろう者から手話を奪おう、取り上げようという教育が続けられてきたなかで、いかにろう者が手話を次代へつないできたか。短い文で正確に書いている。取材した人はちゃんと事実を理解しているのだ。
けれど見出しに「魔法」とあったのがとても残念。ろう学校について正確に書いた記事が、最後の最後に、ついた見出しですべてぶち壊しになってしまったと感じたのだ。さらには手話がまるで不思議なもの、ろう者だけの世界であるかのような、歪んだ間違ったイメージで語られてしまうかもしれない。手話サークルの仲間からも同じ声を聞いた。聞こえる人の立場で書いたからだ、とも言われた。
わたしのまわりにいる、手話を学びたいという聞こえる人たちは、ひとつもそんな間違った歪んだ考えはもっていないのがうれしい。
わたしは声を大にしてはっきり言いたい。
手話は聞こえない人にとって大事な言語である。けっしておもしろおかしい、あるいは不思議なものでもない。
聞こえる人と聞こえない人が対等に会話を交わせる。そのために手話がある。
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