会話が楽しい ― 2010/03/24 23:35:01
まるで1カ月前に戻ったかのような、終日雨と寒さが続いた一日。
そんななかでとてもうれしかったこと。
わたしの会社にいる社員の有志から「手話を教えて」という声をいただき、わたし自身も少しでも、仲間を増やしたいと思って昨年秋から小人数ではあるが手話教室をはじめた。
その成果ともいえるのだけれど、仕事の合間に手話で会話ができたことだ。
聞こえない人と聞こえる人のお互いの理解が欠かせない。
聴覚障がいは「目に見えない」障がいであると言いかえることもできる。どういうことだろう。
まず、「聞こえ」というものを説明しにくいということ。音が聞こえるだけならまだしも、高い音がよく聞こえて低い音が聞きづらい感音性難聴。骨の振動で音を聞く伝音性難聴。これだけでも知識としては分かるかもしれないが、聞こえないということはいくら説明しても体験が難しい。
そして聞こえないために状況が分からず、自分の意思をうまく伝えられない、相手の意思もわからないといういらだち苦しみ。
大学時代に、目の見えない人を疑似体験して、教会の1階から礼拝堂のある4階まで目をつぶって歩くことに挑戦してみた。だがとても怖くて歩けない。目の見えない人がなぜああやっていとも普通に移動できるのか。それだってたいへんな訓練を受けてきたことだろう。
横にずれるが、よくそういった障がい者の疑似体験を、「たったそれだけでなにがわかる。むしろ逆に誤った障がい観を助長することにならないか」という人がいる。
そういう意見があることに理解はできるけれどわたしは全面的には同意賛成しない。むしろ疑似でもいいから体験することで、少しでも障がいのある人たちの思いや状況に近づいてもらえたらと思うのだ。疑似体験が障がいのすべてではないということを踏まえたうえで。
聞こえないという障がいはどうしたってわかりにくい。
けれど聞こえる人が手話を学びたいと声をあげ、わたしもおよばずながら得た経験と知識を駆使して手話を教えるということは、お互いの壁を打ち壊していく機会になる。
手話をおもちゃにしたり、覚えた単語を物まねのように使われるのは嫌だし不快だが、こころから会話をかわそうとしてくれる人たちの手話には、聞こえる人であれ聞こえない人であれ、こちらも誠実に一生懸命読み取りこたえたい。
そんな会話がとても楽しい。
そんななかでとてもうれしかったこと。
わたしの会社にいる社員の有志から「手話を教えて」という声をいただき、わたし自身も少しでも、仲間を増やしたいと思って昨年秋から小人数ではあるが手話教室をはじめた。
その成果ともいえるのだけれど、仕事の合間に手話で会話ができたことだ。
聞こえない人と聞こえる人のお互いの理解が欠かせない。
聴覚障がいは「目に見えない」障がいであると言いかえることもできる。どういうことだろう。
まず、「聞こえ」というものを説明しにくいということ。音が聞こえるだけならまだしも、高い音がよく聞こえて低い音が聞きづらい感音性難聴。骨の振動で音を聞く伝音性難聴。これだけでも知識としては分かるかもしれないが、聞こえないということはいくら説明しても体験が難しい。
そして聞こえないために状況が分からず、自分の意思をうまく伝えられない、相手の意思もわからないといういらだち苦しみ。
大学時代に、目の見えない人を疑似体験して、教会の1階から礼拝堂のある4階まで目をつぶって歩くことに挑戦してみた。だがとても怖くて歩けない。目の見えない人がなぜああやっていとも普通に移動できるのか。それだってたいへんな訓練を受けてきたことだろう。
横にずれるが、よくそういった障がい者の疑似体験を、「たったそれだけでなにがわかる。むしろ逆に誤った障がい観を助長することにならないか」という人がいる。
そういう意見があることに理解はできるけれどわたしは全面的には同意賛成しない。むしろ疑似でもいいから体験することで、少しでも障がいのある人たちの思いや状況に近づいてもらえたらと思うのだ。疑似体験が障がいのすべてではないということを踏まえたうえで。
聞こえないという障がいはどうしたってわかりにくい。
けれど聞こえる人が手話を学びたいと声をあげ、わたしもおよばずながら得た経験と知識を駆使して手話を教えるということは、お互いの壁を打ち壊していく機会になる。
手話をおもちゃにしたり、覚えた単語を物まねのように使われるのは嫌だし不快だが、こころから会話をかわそうとしてくれる人たちの手話には、聞こえる人であれ聞こえない人であれ、こちらも誠実に一生懸命読み取りこたえたい。
そんな会話がとても楽しい。
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