実に言い得て妙なタイトル ― 2010/03/05 07:05:22
洋画の原題と日本公開にあたって、日本の配給会社が決める日本語のタイトルを突き合わせて「しっくりこないなあ」とか「なんだこれは」と毒づきたくなるものが多い、とわたしはいつも思う。センスが悪いのかそれとも日本向けに考え、へんにひねくりまわし過ぎなのか。
けれど今回わたしが見た「しあわせの隠れ場所」――原題は「The Blind Side」という――は、悪くないどころか、なかなかよくできている。近年まれにみる、いいタイトルだと感じた。
Blind Sideとは、フットボールでいう、クオーターバック(QB)の背後や横など、QBにとって死角であり見えない場所をさす。もう少しわかりやすく説明するなら、右利きのQBがパスを投げようとするとき、スクリメージラインから下がるにせよ、スクリメージラインのすぐそばにとどまるにせよ、目の前にいる巨大なオフェンスラインとディフェンスラインのぶつかり合いの向こうにパスを投げるターゲットを見分け探しだすだけでも容易ではない。パスを投げるとき、背中は無防備状態で、それこそディフェンスタックル(DT)やラインの後ろから、猛スピードで迫るラインバッカー(LB)にタックルでもされたら万事休す、だ。そのQBの見えない死角を守るのはオフェンスライン、レフトタックル(LT)だ。
長くなったが、2009年のNFLドラフトで、Baltimore RAVENSから1巡23位で指名されたマイケル・オアーの実話をもとにした作品だ。マイケル・オアーのポジションはLT――。QBのBlind Sideを守るのが彼の仕事。
中学時代に父親が殺人事件に巻き込まれて殺され、母親はドラッグにおぼれ、兄はレストランのウェーター。9年間で10ものの学校を転々とするすさんだ生活を送っていた、マイケル・オアー。高校2年になってブライアクレスト・クリスチャン・スクールに特例で入学が許されたが、黒人ということで誰も相手にしない。
感謝祭の寒い夜、ポロシャツに短パン姿で歩く彼を見かけたリー・アンとショーンのチューイ夫妻はオアーを自宅に泊めて、養子にすることを決意する……。
当然激しいフットボールシーンもあるし、ルー・ホルツ(元ノートルダム大学ヘッドコーチ)などカレッジフットボールの名監督も出演している。スポーツ好きにはたまらないけれども、単なるスポーツの感動話ではない。また、貧しい黒人を裕福な白人の家庭が助けてあげたという美談でもない。
断わっておくが、この作品の舞台であるテネシー州メンフィスは、いまでも人種差別が残っている(表面に現れないだけで)州のひとつなのだ。ドラッグ、人種差別、貧困、性差別。
黒人男性が白人女性とセックスをしたかというセリフが出る。マイケルを探すために単身、黒人が多く住む公営住宅を訪れたリー・アン・チューイにレイプまがいの暴言を吐いた黒人に向かって「わたしは全米ライフル協会の会員でもあるのよ」と銃を向けることもいとわないとやり返す場面もある。マイケルがミシシッピ大学への進学を決めた直後、チューイ夫妻が自分たちの母校でもあるミシシッピ大学へ進ませたくて不正を働いたのではないか、とマイケルに詰問する弁護士は、黒人の女性だ。貧しい黒人男性と有能な黒人女性。
さらには、マイケルの個人教師としてチューイ夫妻が雇ったのは、ミス・スーという、白人で民主党支持。南部はフットボールファンが多く、敬けんなクリスチャン、そして熱心な共和党支持者が多い。
フットボールの有能な選手は奨学金を得て大学へ進む。言い換えれば、スポーツの才能がなければ、貧しい若者は大学へ進学できない。そして大学にとっては有能な選手を多く抱え、プロに進む選手を多く出し、試合のテレビ中継をしてもらうことで収入につながるという経済構造。大学とはいっても日本のプロ野球なんか足元にも及ばない収入があるのだ。スタジアムはプロのそれに勝るとも劣らないレベルだ。
……そういった、アメリカの光と影も描いている。
なによりわたしが感じるのは、美談ではなく、白人と黒人の壁でもなく、人間とは何か、という問いだ。たしかに南部はそういう土地柄だけれど、率直かつ気立てのよいリー・アンの、利害関係だとかあわれみだとかを超えた、品位ある優しさの行為だ。
こんなセリフが出てくる。「わたしたち(チューイ夫妻)が彼(オアー)に何かをしてあげたのではなく、彼がわたしたちを変えてくれたのだ」と。そこには肌の色も男も女もない。フットボールもない。ただただ、人間として何をしたかしなかったか、その一点しかない。そして人間は、誰かのために生きたいと思ったとき、大きな成長と変化をなすことができるのだ、と。大きなケミカル、化学反応にたとえられるなにかを、人間はなすことができるのだ。
しあわせの隠れ場所――The Blind Side。タイトルは実に言い得て妙だ。
みなさんもできたら、一度ご覧になることをおすすめします。
けれど今回わたしが見た「しあわせの隠れ場所」――原題は「The Blind Side」という――は、悪くないどころか、なかなかよくできている。近年まれにみる、いいタイトルだと感じた。
Blind Sideとは、フットボールでいう、クオーターバック(QB)の背後や横など、QBにとって死角であり見えない場所をさす。もう少しわかりやすく説明するなら、右利きのQBがパスを投げようとするとき、スクリメージラインから下がるにせよ、スクリメージラインのすぐそばにとどまるにせよ、目の前にいる巨大なオフェンスラインとディフェンスラインのぶつかり合いの向こうにパスを投げるターゲットを見分け探しだすだけでも容易ではない。パスを投げるとき、背中は無防備状態で、それこそディフェンスタックル(DT)やラインの後ろから、猛スピードで迫るラインバッカー(LB)にタックルでもされたら万事休す、だ。そのQBの見えない死角を守るのはオフェンスライン、レフトタックル(LT)だ。
長くなったが、2009年のNFLドラフトで、Baltimore RAVENSから1巡23位で指名されたマイケル・オアーの実話をもとにした作品だ。マイケル・オアーのポジションはLT――。QBのBlind Sideを守るのが彼の仕事。
中学時代に父親が殺人事件に巻き込まれて殺され、母親はドラッグにおぼれ、兄はレストランのウェーター。9年間で10ものの学校を転々とするすさんだ生活を送っていた、マイケル・オアー。高校2年になってブライアクレスト・クリスチャン・スクールに特例で入学が許されたが、黒人ということで誰も相手にしない。
感謝祭の寒い夜、ポロシャツに短パン姿で歩く彼を見かけたリー・アンとショーンのチューイ夫妻はオアーを自宅に泊めて、養子にすることを決意する……。
当然激しいフットボールシーンもあるし、ルー・ホルツ(元ノートルダム大学ヘッドコーチ)などカレッジフットボールの名監督も出演している。スポーツ好きにはたまらないけれども、単なるスポーツの感動話ではない。また、貧しい黒人を裕福な白人の家庭が助けてあげたという美談でもない。
断わっておくが、この作品の舞台であるテネシー州メンフィスは、いまでも人種差別が残っている(表面に現れないだけで)州のひとつなのだ。ドラッグ、人種差別、貧困、性差別。
黒人男性が白人女性とセックスをしたかというセリフが出る。マイケルを探すために単身、黒人が多く住む公営住宅を訪れたリー・アン・チューイにレイプまがいの暴言を吐いた黒人に向かって「わたしは全米ライフル協会の会員でもあるのよ」と銃を向けることもいとわないとやり返す場面もある。マイケルがミシシッピ大学への進学を決めた直後、チューイ夫妻が自分たちの母校でもあるミシシッピ大学へ進ませたくて不正を働いたのではないか、とマイケルに詰問する弁護士は、黒人の女性だ。貧しい黒人男性と有能な黒人女性。
さらには、マイケルの個人教師としてチューイ夫妻が雇ったのは、ミス・スーという、白人で民主党支持。南部はフットボールファンが多く、敬けんなクリスチャン、そして熱心な共和党支持者が多い。
フットボールの有能な選手は奨学金を得て大学へ進む。言い換えれば、スポーツの才能がなければ、貧しい若者は大学へ進学できない。そして大学にとっては有能な選手を多く抱え、プロに進む選手を多く出し、試合のテレビ中継をしてもらうことで収入につながるという経済構造。大学とはいっても日本のプロ野球なんか足元にも及ばない収入があるのだ。スタジアムはプロのそれに勝るとも劣らないレベルだ。
……そういった、アメリカの光と影も描いている。
なによりわたしが感じるのは、美談ではなく、白人と黒人の壁でもなく、人間とは何か、という問いだ。たしかに南部はそういう土地柄だけれど、率直かつ気立てのよいリー・アンの、利害関係だとかあわれみだとかを超えた、品位ある優しさの行為だ。
こんなセリフが出てくる。「わたしたち(チューイ夫妻)が彼(オアー)に何かをしてあげたのではなく、彼がわたしたちを変えてくれたのだ」と。そこには肌の色も男も女もない。フットボールもない。ただただ、人間として何をしたかしなかったか、その一点しかない。そして人間は、誰かのために生きたいと思ったとき、大きな成長と変化をなすことができるのだ、と。大きなケミカル、化学反応にたとえられるなにかを、人間はなすことができるのだ。
しあわせの隠れ場所――The Blind Side。タイトルは実に言い得て妙だ。
みなさんもできたら、一度ご覧になることをおすすめします。
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