気高く凛とした人間性を失うことなく ― 2010/03/04 23:40:26
わたしも生きていればいつかはこの世を去っていく。新たに生を受けた赤ちゃんから高齢者まで、ひとしく生から死へ続いていく。言い換えれば、生まれたということは死へまっしぐらに進んでいるということなのだ。
と、こんなことを考えたのは、昨日の新聞を読んだことがきっかけだ。
写真は、昨日のある全国紙の夕刊。
右にあるのは古今、昔から現在までの日本の名作マンガを取り上げて、作者や作品、さらにはその背景などについて紹介している連載物。今回は忍者を取り上げている。
左にあるのは著名人にインタビューして来歴や人生の中で得た出会いなどを語ってもらう「人生の贈りもの」という連載だ。今回は藤木久志さんを取り上げている。
たまたま偶然だろうが、右にあるマンガを取り上げた今回の記事は、小学生新聞に掲載されているギャグ漫画であり、左にあるのは、歴史を通して人間とは何かを見つめておられる先生だ。室町時代が設定だというギャグ漫画とはいえ、しっかりした歴史考証に基づき忍者をきちんと描いているだけではなく、主人公の両親が殺されたというストーリーから、単なるギャグ漫画ではなく、歴史を子どもに考えさせる、しっかりしたつくりになっているという。
藤木久志さんは大坂夏の陣を描いた屏風をテーマに、当時の戦乱と、女性や子どもたちが武士集団の暴力行為に巻き込まれて、身ぐるみはがされたり暴行されたり、はては売られたりしたというできごとを語っている。巨大な暴力という意志によって、最も弱い人たちが最も悲惨な状況におかれることを強いられたのだ、と。
アウシュビッツを見てきたり、アンネの日記を読んだり語ったりしてきたけれど、いまなお暴力によって女性や子どもが悲惨な状況におかれている状況は変わらない。
アフリカや中東も戦乱で学校に行けない子どもがたくさんいる。アジアにおいて少年少女がポルノの対象にされていること。最も多く子どものポルノを愛好しているのは、なんと日本人だという。
わたしも男性だから、大きなことは言えないかもしれない。
ハイチやチリの地震のあとで、略奪行為が相次いでいるという報道を聞いて、災害というどうしようもない極限状況の中で、人間性が如実に表れるのだとつくづく感じさせられた。
ひとしく生から死へ続いていく。死へまっしぐらに進んでいるこのわたしは、いつか来る自分の死を前に、どうしようもないかもしれないけれど、気高く凛とした人間性を失うことなく、生の終わりまで生きたい。
と、こんなことを考えたのは、昨日の新聞を読んだことがきっかけだ。
写真は、昨日のある全国紙の夕刊。
右にあるのは古今、昔から現在までの日本の名作マンガを取り上げて、作者や作品、さらにはその背景などについて紹介している連載物。今回は忍者を取り上げている。
左にあるのは著名人にインタビューして来歴や人生の中で得た出会いなどを語ってもらう「人生の贈りもの」という連載だ。今回は藤木久志さんを取り上げている。
たまたま偶然だろうが、右にあるマンガを取り上げた今回の記事は、小学生新聞に掲載されているギャグ漫画であり、左にあるのは、歴史を通して人間とは何かを見つめておられる先生だ。室町時代が設定だというギャグ漫画とはいえ、しっかりした歴史考証に基づき忍者をきちんと描いているだけではなく、主人公の両親が殺されたというストーリーから、単なるギャグ漫画ではなく、歴史を子どもに考えさせる、しっかりしたつくりになっているという。
藤木久志さんは大坂夏の陣を描いた屏風をテーマに、当時の戦乱と、女性や子どもたちが武士集団の暴力行為に巻き込まれて、身ぐるみはがされたり暴行されたり、はては売られたりしたというできごとを語っている。巨大な暴力という意志によって、最も弱い人たちが最も悲惨な状況におかれることを強いられたのだ、と。
アウシュビッツを見てきたり、アンネの日記を読んだり語ったりしてきたけれど、いまなお暴力によって女性や子どもが悲惨な状況におかれている状況は変わらない。
アフリカや中東も戦乱で学校に行けない子どもがたくさんいる。アジアにおいて少年少女がポルノの対象にされていること。最も多く子どものポルノを愛好しているのは、なんと日本人だという。
わたしも男性だから、大きなことは言えないかもしれない。
ハイチやチリの地震のあとで、略奪行為が相次いでいるという報道を聞いて、災害というどうしようもない極限状況の中で、人間性が如実に表れるのだとつくづく感じさせられた。
ひとしく生から死へ続いていく。死へまっしぐらに進んでいるこのわたしは、いつか来る自分の死を前に、どうしようもないかもしれないけれど、気高く凛とした人間性を失うことなく、生の終わりまで生きたい。
|
最近のコメント