聞こえないということ2008/01/07 22:52:06

昨日書いた、聞こえないということについてもう一度書いてみたい。

説教を聴くというのは、説教壇に上がった牧師からの、一方的な働きかけのように見えるけれど、聴きながらわたしたち一人ひとりが自らの内面と向き合う時間であるとも言える。しかし、わたしたち難聴者にとっては、聞こえないというただその一点だけでもしんどいというか苦痛です。信仰のあるなしではなく、聞こえないからどういう状況なのか、内容がつかめない。それが不安につながっていく。災害や事故の際にアナウンスがわからないのと同じような心理になります。

礼拝説教は一方的なものではないのだけれど、でもふりかえってみるとわたしも、一方的な会話をしていないかと自分をみつめて思います。
聞こえないから「うん」「わかりました」「そうですね」といった、聞こえる相手にしてみればわかっているんだかわかっていないんだか、という反応ととられる。わたしは「おっしゃることはこういう意味なんですね」と理解しました、といいたいけれど、「あなたのいうことはわかりました」という意味で、「わかりました」と言っている。
「うん」「わかりました」「そうですね」という答えを返すのは、わたしも本当はいやなのです。オウムがえしではなく、きちんといまの状況なり理解なりを相手に伝えたいのだけれど、場面によっては、「うん」「わかりました」「そうですね」という答えをしてしまう。それがかえって誤解されたり行き違いになったりして、ますます苦痛になってしまうのです。

おまけにわたしは聞こえる人と同じくらい明りょうはっきりと話せるから、なかなか難聴だということが伝わりにくい。ときに無口になってしまうのは、聞こえずに会話についていけないのと、普通に話せるから、へんなとんちんかんな反応をしてはいけない、と自己規制してしまうからでもある。

今日も、遠くに聞こえるような周囲の会話が苦痛になって、耳が疲れてしまいました。なんだろう。内容がわからなくても耳に入ってくる。それを適当に聞き流すには、補聴器を外すしかないのだけど、そうするとまったく聞こえないから、これまた苦痛です。
一番つらいのは精神的な疲れでしょう。階段を上り下りしたりビル内を歩き回ったりするのはまったく苦痛には感じません。聞こえないということ、周りに合わせなくてはという思いと「うん」「わかりました」「そうですね」という答えにみられる、単純な会話の繰りかえし。それらが一番疲れることなのです。
大事な仕事上の会話のほかにも、筆談でもいいから、苦痛にならないなにげない会話があると、それだけでずっとこころが軽くなるような気がします。

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