弱さでけっこう2008/01/20 22:16:09

今年最初の教会の青年会学習会。本音としてはもう青年という年齢ではないから、いいかげん降りたいのだけれど、なかなかそうさせてくれないので泣きたい(笑)気分だったりする。

その青年会では、「弱さの絆」がテーマだった。今年最初の聖書引用は文語体で始めてみました。
 
 體は一つにして肢は多し、體の肢は多くとも一つの體なるが如く、キリストも亦然り。
 我らはユダヤ人・ギリシャ人・奴隷・自主の別(わかち)なく、一體とならん爲に、みな一つ御霊にてバプテスマを受けたり。
 而してみな御霊を飲めり。
 體は一肢より成らず、多くの肢より成るなり。
 足もし『我は手にあらず故に體に属せず』と云ふとも、之によりて體に属せぬにあらず。
 耳もし『われは眼にあらぬ故に體に属せず』と云ふとも、之によりて體に属せぬにあらず。

         (文語体 新約聖書 コリント人への前の書 12:12~16)

 否、からだの中にて最も弱しと見ゆる肢は、反って必要なり。

          (文語体 新約聖書 コリント人への前の書 12:22)

今の社会は財産であったり社会的地位であったり、ともかくも能力が高く強く権力のある人が優れて価値あるものとされている。教会も、どういうわけか
牧師も含めて男性が教会役員を占めたり、社会的地位の高い人が優れていると見られる傾向がある。女性が役員というところはまだまだ少ないのではないだろうか。もちろん男性にも、人格的にも信仰の上からもすばらしい人がいらっしゃる。そのなかには有名企業の役員だという方も。
しかし、耳が不自由で、見た目分かりにくいというわたしも含めた、障碍者
や弱者はなかなか教会でさえ居場所がない。あっても「お客さま」的な扱いをされることがある。わたしの経験だと、たとえば礼拝説教で筆記をしてくださる方以外とはほとんど会話がない。以前に職場で同僚と会話がないということを書いたけれど、それに近い気分を味わうことがある。
つまり、聞こえるかた、健常者と言われる人が中心の社会では、意識するしないにかかわらず、メジャー、多数者である健常者中心になる。
ところが視点を変えて、マイナー、弱者であるわたしたち障碍者が中心の社会になると聞こえないという弱さゆえに、毎日毎日悩み迷う、失敗を重ねながらのなかから、自分らしく生き生きと生きようと可能性を探っていく力がみえてくる。どういったらいいのだろうか。わたしはこれを「あきらめの悪い、したたかさとしなやかさ」と受け取りたい。

と書いて思い出した。
「負け犬の遠吠え」という本がベストセラーになった。30過ぎの未婚の女性をテーマにしたのだそうだが、どっこい負け犬でいいではないかと、わたしは思う。
聞こえない。昨日も朗読のパートを間違えて冷や汗をかいた。舞台でなかったからいいようなもの、やはり本番ではあってはいけないことだ。わたしの手話表現にも、いろいろ注文が来る。

何くそと思う。負けてたまるか。いまはなかなかうまくいかないけれど、あきらめずに失敗を繰り返してでも、いつかかならずうまくなれると信じる。そう、あきらめの悪さが、「いつかきっと」という思いにつながるのではないだろうか。

財産があり地位があり社会的評価が高い人にききたい。あなたは希望をもっていますか?
わたしたち弱者は、声を上げることさえなかなか機会がない。けれどあきらめずに、しつこくしたたかにしなやかに、あきらめの悪さをもって、昨日も今日も明日も、声を上げようとしている。
何くそ。負けてたまるか。

2008年の今年、わたしもささやかな目標を持っている。
いまはかなわないかもしれないが、いつかかなうと信じている。
わたしを理解してくれる人が少ないかもしれない。100人中、1人しかいないかもしれない。
でも、1人いればまたどこかで2人目がみつかるかもしれない。
その、あきらめの悪さを失いたくない。

弱さでけっこう。負け犬上等。これでいこうではないか。