電話嫌い(笑)2009/04/26 07:37:23

何が嫌いって、電話である。

昔社会に出たばかりのころ、電話番をしたことがあるけれどそのころはまだ、わずかながら電話が聞こえていた。いまと違ってデジタル補聴器を使わず、電話もデジタルではなかったころだ。
いまの公衆電話は写真にあるように、ダイヤルボタンの隣、上から2つあるボタンを押すとボリュームをコントロールできる機能が付いている半面、実はこれがくせ者で、音量を上げると音が割れたりひずんだりして聞こえづらい。
おまけにわたしは、話すほうは聞こえる人と変わりないから、電話の向こうの相手はてっきり聞こえる人と同じだろうと思っているだろう。いちいち「すみません、耳が不自由なんでよく聞こえないのですが……」と言ってもおそらく電話の向こうでは「?」の連続だろう。「何を言っているんだこの人は」。なにせ相手はなめらか普通に話せるのだから。聞こえないことを説明する、聞こえないわたしがなめらか普通に話す。そのギャップジレンマが、わたしを電話から遠ざけてしまうのだ。

というわけでここ数年、めったなことでは公衆電話ボックスに入ることがなくなった。一応テレフォンカードも持っているのだけれど。

携帯電話ももっぱらメールか、携帯電話でウェブやインターネットを見るだけ。電話をすることはもうほとんどない。
けれどもし、このさき巨大災害が起きたときに、携帯電話が使えない状況に陥ったらどうなるだろうか、という不安も抱いている。公衆電話が使えない難聴者ゆえにこの不安は矛盾であるということはよく分かっているのだけれど。

でも、まあ社会に出たばかりのころは、会社ではファクスすら使わせてもらえなかった。しばらくして電話も音量を上げるアンプをつないでみてもさっぱり思ったような効果を得られなかった。いまはファクスもメールもある。昔に比べたら何と恵まれていることだろう。

補聴器を付けているから、デジタル補聴器だから完全完ぺきに聞こえると思うだろうが、実はそうではなく、どんなに高機能高性能の補聴器であっても、聞こえない聞きづらいことがあるのだ。ナチュラル、自然な耳には絶対にかなわない。それは補聴器の宿命といってもいい。しょせん機械でしかない。神さまが人をおつくりになられたと聖書にあるが、その創造のわざであるこの自然な耳はなんとすごいものだろう。まして音楽家のそれときたら! 聞こえなくなった耳で「第9」を書いたベートーベンをさらにわたしはすごいといつも驚嘆している。

やっぱり電話で会話をするのはいまもっても大嫌い、苦手だ。
聞こえないんだからしかたないよねえ、と納得させていくしかない。