矛盾した存在であるが2009/04/11 22:45:33

今日は全国的に真夏に近い気温だったとか。朝、病院へ行くときに着る服も、少々迷ったけれど夏スラックスにして出てきた。

その病院では、血液検査とレントゲン、そして日をあらためて胃カメラと超音波断層撮影の予約をすませてきた。若いころに一度胃カメラをやったことがあるけれど、からだものども小さいためにカメラが通らず、しかたなくバリウムをのんだ。あのきつかったこと。

レントゲンでは、手書きで「肩を1回たたいたら息を止めて、2回たたいたら息を吸って」と書かれた紙を掲示してもらった。聞こえないわたしにはとても切実な問題である。写真は、離れたところから呼び出してもらえる呼出器。双方いずれかの「CALL」ボタンを押すと振動で着信がわかる。これをもっていって、病院での呼び出しで困らなかった。

午後に昼食を済ませた後、急に頭痛と吐き気があり、スマイルどころか、具合を悪くして顔をしかめてしまった(笑)。
来月初めの検査までちょっと気が重い。

さて。
このあいだから書いている、そして何度も書いたり取り上げたりした、手話ソングや手話つき朗読。
はっきり言うなら、ひとりよがりであってはいけない。
自分だけでやるなら、いいかえれば自己満足、自分だけの世界でやるなら、自己流でも、自分だけわかったふり、「なんちゃって手話ソング」(なんなんだ、それ)でもいいけれど、わたしは生涯ずっと手話ソングや手話つき朗読を続け取り組んでいきたい。聞こえないけれど普通に話せる。このからだで何かを表わし伝えたい。わたしの希望、目標は朗読なりソングなり、ろう者、難聴者、手話通訳士、聞こえる人、聞こえる人にも聞こえない人にも楽しめ伝わるものをつくりたい。

よく手話を使ったパフォーマンスについて賛否両論の議論をきくことがある。たとえば聞こえる人が手話をやるのは、聞こえない人に対して失礼ではないか、難聴者ろう者にとって手話はコミュニケーションであり言語である。それをパフォーマンス、遊びにされたくない、などなど。
みなさんはいかがお考えだろうか。

でもわたしは生きているあかしを遺したい。生きたといえる何かをつくっていきたい。聞こえない人にも自己表現自己実現の場があっていいしそのための手話であってもいいではないだろうか。コミュニケーションとしての手話も、自己表現としての手話も、認め合えることはできないのだろうか。
たまたま5歳の時から聞こえなくなって、いまは補聴器なしではほとんど聞こえないけれど普通に話せるからだでもある。この矛盾でずっと苦しみ悩んでいた。だが矛盾の苦しみを手話との出会いで乗り越えられた。
矛盾した存在であるが何かができるといえるものを遺したい。多くの、聞こえる人聞こえない人と楽しみ喜び悲しみ、伝えたい「何か」を分かち合いたい。
秋の朗読舞台も手話ソングもこれからもわたしは生きているかぎり続けたいし、聞こえる人にも聞こえない人にも、みなさんにみていただきたい。これからも生涯大切な人、ずっと見に来てほしい、お見せしたい人がいる。

朗読もソングもいいかげん適当ではなく、きちんと手話通訳士はじめみなさんに聞いたり自分の考えを伝えたりしながらつくっている。
今日も病院で診察のあいだ『学生時代』の「何の装いもせずに」を、「化粧もしないで」と訳してはどうでしょうか、と、ご指導をお願いしている手話通訳士の方にお尋ねした。

やるなら、自分のいのちをかけてといいきれるほど一生懸命やりたいし、いいものをつくりたい。やってよかったといえるものにしたい。