ひとつだけで物事を見る危うさ2009/04/23 23:32:33

昨日のプロ野球、福岡ソフトバンク・ホークス対北海道日本ハム・ファイターズ戦。
福岡の主将・小久保選手が8回に逆転2ランホームランを放った。
ある一般紙には小久保選手がホームランを打ったことしか書いていないが、あるスポーツ新聞によると、小久保選手は前日の試合で左手首に死球を受けている。それだけではなく、2007年に左手首じん帯を手術した影響で、握力が62~63から40キロ前後まで落ちたのだという。それで打ったというのだから、さすがというか驚くべきというか。ふつうのひとのからだではない。プロの体力では40という数値は低いのだろう。

そういったことは書かれていない、あるいは取材したけれど紙面になる段階でデスクなり編集者がカットすることもある。カットするのが悪いわけではなく、新聞を作るために限られた時間制約があり、紙面のなかで重要なこととそうではないこと、伝えなければならないことといらないことをそぎ落とす作業も必要だからだ。

すべての新聞に目を通すなんていうのは、よほど時間にゆとりがあるか、あるテーマに関心を持っているかでもなければ難しい。ただでさえ忙しい生活に追われている現代人のこと。無理もないと思う。
けれども、ひとつだけの視点では、何が正しいのかほんとうのことなのかわからないこともある。ひょっとするとうそかもしれない。

これだけスピーディーな、ネットによる情報伝達が普及しているいま、どうしても速報性に欠けるとみられがちな新聞の役割だけれど、どっこいどうしてどうして、いろいろな新聞があり、伝えられている情報とそうではない情報がある。新聞も含めた、多くの情報に触れる機会があるという私たちの社会は、何と恵まれていることだろう。もしこれがひとつしかなかったり、政治家や指導者によって操作されたりつくられたりした情報だけだったら、うそもごまかしも、見抜くことなどすぐにはできないに違いない。
すぐに解答や答えを見いだすことも大事だけれど、ネットですぐに解答を見いだすのではなく、伝えられている情報のどこかに抜け落ちている部分はないか、隠されているものはないか。ほかに伝えるべきものはないか。
それらを探り出すという意味で、新聞の果たす役割、存在意義はまだまだ十分あるとわたしは思う。