人に向けてかけたくない言葉2015/06/17 23:32:49

最近のこと。
独身時代、いいなと思っていた、少し年下の女優さんがある週刊誌で14年余ぶりにグラビアに出た。
それをとりあげたネット上の記事には「劣化」「激太り」などという言葉が並んでいる。
正直率直に言うと、こういう言葉を見聞きするととても強く不快感をおぼえる。

妻の、30代20代のころを知らないのだけど、おそらくはそのころはいまよりももっと若くてきれいだっただろうと思う。
わたしだって同じ時間を生きてきて、20代30代のころと比較してみると、ハリがなくなってきたなとか肌につやがないなとか感じることがある。まさか自分にも容ぼうや身体の衰えがないわけではない。なかったらむしろおそろしいくらいだ。
社会人になりたてのころ、自分がろう者になっていくということをどう考えていたかと問われれば、おこがましい言い方もしれないけれども、同世代の健康な人よりさきに、自分のからだがだんだん衰えていく、機能が減っていく、ひいては死に近づいているのだと思ったものだ。しかしそれは手話と出会って、けっしてマイナスなものでも人間としての存在価値がなくなったということでもなくて、むしろだからこそ人生を、生を、最後の瞬間までよりよく生きようというポジティブなものになっていくのだと思う。そのためにろう者でありながら話せることを通してチャレンジしたいものが与えられた、と前向きに思っている。

話をはじめに書いた、あこがれていた女優の容ぼうと「劣化」ということに戻すと、ネット上で「劣化」と書いたり発言したりしている人たちは、自分もまたいつかは老化現象がすすみ、容ぼうも衰えていくことに気づかないのだろうか。「劣化」という言葉は人に向かってかける言葉ではないだろう。なにか、モノ扱いをしているようにも思えて、そっちのほうがよっぽど人間としての感性の「劣化」を感じさせる。
自分たちは衰えない容ぼうは若いままだ、と思っているのだろうか。それこそごう慢な態度である。たしかに衰えはあるだろうが、劣化とは違う。衰えながらも、逆に人間としての深み、成熟さがにじみ出てくるものではないだろうか。
いまは単純で分かりやすい「自分が欲するように世界を理解する」という思考がひろがっている。そこには多様さを理解しようという態度姿勢はみられない。ただあるのは劣っているかいないか、などという、分かりやすさである。だから見た目でしか理解できず、たとえばはじめに書いた女優さんにしても、テレビドラマで活躍していたころからいまに至るまでの、いろいろな人生の歩みや苦労を思いやるといった思慮に欠ける。

これからの人生がどうなっていくのかわからないけれども、妻と一緒に生きていく人生が、ほとんど同世代であるがゆえに、容ぼうやからだつきやいろいろな衰えを徐々に共有でき、だからこそお互いも自分自身も、受け入れ合い、一緒に生きていくことだろう。

80歳90歳になっても卓球や手話つき朗読やギターを続けていられたら、これ以上の喜びはないかもしれないね。肌のつやがなくなりしわが増えたとしてもだ。

わたしは「衰え」ということはなるほどなと思っていたとしても、まちがっても「劣化」という言い方は嫌いだし、人に向けてかけたくない。