たとえ明日で世界が終わろうとも2012/12/21 23:37:18

いまのメキシコで栄えた、マヤ文明が、現代の暦で2012年12月21日で世界が終わる、と記録に残したとある話が、ここ数週間世界をかけめぐった。日本国内はそれほど大騒ぎになってはいなかったが、中国ではこの話に影響を受けた男性が小学校に乱入して児童にけがを負わせた事件が起き、ロシアでも女性刑務所内で暴動が起きたとも伝えられた。
その12月21日。

いたって世界は、とりたてて異常はない。世界が終わりを告げるというような事象も事件も何も起きていない。

わたしは中学生のころにはやったノストラダムスの大予言ブームで、1999(年)7(の月)に世界が終わるという話を大まじめにうけとっていたことがある。だが何も起きず、いまに至っている。

聖書のなかに「世界の終わり」について言及していると思われるところがあるため、これまでもこういった騒ぎやうわさがかけめぐったことが何度もある。

だが、イエスの誕生日がいつ、どこでと書いていないのと同じように、聖書はこの世界の終わりについて、いつどこで、とは語っていない。
そもそもそんな話を真に受けるほうがおかしい。

世界の終わりはたしかに「いつかは」くるかもしれない。
でもそれを気にするよりは、いまをどう生きるかに目を向けたほうがよほどポジティブ、意識した生を生きることにつながる。
考えてごらん。わたしたちはみな、「オギャー」と泣いて生まれた瞬間から、死に向かって生きているのだ。そのことを意識しているからこそ、自分の人生は一度限りであり、有限なのだということに気づかされるはず。そして他者も同じように有限な存在だということに思いをはせる。

世界の終わりにまどわされたりうわさを信じたりするより、一瞬一瞬をいかによく生きていくか。昨日より今日、今日より明日、少しでもいい人生を残したいよく生きていきたいと思うこと。そのかなたというかさきに、たとえ明日で世界が終わるとしても、わたしはこれこれをした、残したと植える人生が待っている。
ビクトル・フランクルの言葉を思い出す。「あなたが人生に絶望したとしても、人生はあなたに絶望しない」
世界の終わりがどのようなものであろうとも、わたしは、あなたは、一度限りの人生を他者のために自分のために生きていくことができる。それだけで十分、世界の終わりがあろうとも生きる価値がある。