伝えようとする心 引き込み、考えさせる力2010/08/31 23:00:09

朝、もやしと豚肉をいためて豆板醤で味付けしたおかずとキュウリの浅漬け、ポテトサラダを弁当にして持っていく。少し余ったため、夜のごはんに残しておいたが、帰りに買い物をしてきた。
スーパーの野菜売り場をのぞく。
気のせいかな。にんじんが細いのだ。アスパラもそう。こんなに細かったかな?

もうひとつこの夏で気づいたことがある。
皿を洗うときに水道から流れる水が、夜に入っても熱く感じるのだ。お湯ではない。水だ。だのに温かい。たぶん昼間の暑さで水道管が熱せられたままなのだろう。まあ夏だからいいけれど、この暑さは来月まで続くかもしれないというから、野菜の出来具合といいさんまの不漁といい、少し不安でもある。

新聞から拾い読みをしてみた。
先週金曜日夕刊の、脚本家の三谷幸喜さんのエッセーと今日の夕刊の論説委員の記事にひかれた。

三谷さんは『ステキな金縛り』という映画作品の打ち上げパーティーで同映画のテーマ曲「ONCE IN A BLUE MOON」を披露するため、スタッフの若い男性、ジャンボ氏をシンガーに抜てきした。だが彼は歌が得意ではない。けれども一生懸命練習をして、三谷さんのこころを揺さぶった。いわく「歌は決してテクニックではないのだ。大事なのは歌を伝えようとする心なのだ。それをジャンボは教えてくれた」。

もうひとつ、論説委員の記事には、東京拘置所にある、死刑執行場を公開したという先週の記事と死刑執行場の写真を前に、一昨年に見たという演劇『どんとゆけ』という作品を紹介していた。
被害者家族が死刑に直接かかわる「執行員制度」で、執行員として夫と子どもを殺された妻と夫の父が加害者の青年と向き合う、というところから始まるのだという。わたしはこの作品を見たことがない。どなたかいらっしゃるだろうか。
筆者はこう書いている。
「見る者を引き込み、当事者のように考えさせるのが演劇の力」

もうすぐ取り組みを再開する、手話つき朗読『ゆずり葉』では、聞こえないわたしは声と手話の両方で演じ語る。そして聞こえない吾朗とろう学校教員で吾朗の恋人であるさやか、聞こえる者と聞こえない者の両方を演じ、聞こえない者と聞こえる者の苦しみを表現しなければならない。

わたしはどちらの立場にも立てる。5歳までは聞こえていたから、ある程度はわかる。普通に発音発声ができるから初めて会った人は100人中100人がわたしを聞こえる者だとばかり思った。しかしわたしは補聴器をはずすとまったく聞こえないろう者でもある。聞こえない者の苦しみ悲しみは痛いほどよくわかる。

どちらにも立てる者として、舞台を観にきてくださる皆さんを引き込み考えさせることができるだろうか。それが、舞台に立つ目標であり成果であるのだ。
けれども押しつけることが引き込み考えさせることではない。あくまでも演じることでしか伝えられないのだから、あとはお客さんにまかせるしかない。

昨日も書いたけれど、笑って楽しむこと。とともに、聞こえない者と聞こえる者の苦しみ悲しみを伝えたいという思い。それがなくては、いくら百万一億の手話や言葉を駆使しても、伝わらないに違いない。

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