カレーとビールと花火大会2010/07/01 23:07:20

7月最終日の、そして最後の土曜日。
お昼から4時間をかけてカレーとサフランライスをつくった。つくり終えてから朗読の練習をした後、わたしの家から見られる、隅田川花火大会を楽しむためにやってきた、手話サークルの仲間たちとともに6時間あまりのひとときを楽しむ。

ヨーロッパやアメリカでは花火というとスポーツなどのイベントのときによくみるけれど日本ではやっぱり夏にみるのが一番いい。
打ち上げられた花火の美しさに驚嘆しては、この世を去っていった仲間たちや故人をしのぶ。

それにしても暑い一日。よくもまあこんな暑さの中で人が集まるものだ。
明日からは8月。まだ8月というべきかもう8月というべきか。わたしにとっては「もう」だ。

説明するのではなくイメージで2010/07/01 23:45:17

7月に入り、いよいよ明後日からは声のほうもご指導をいただく。

昨日も手話通訳士のご指導で、朗読『ゆずり葉』の手話表現を変えたり工夫したりしてみた。前回のご指導からまた、変更がいくつかある。

出だし、「俳優志望の吾朗は」の部分。
ここは主語である吾朗。俳優志望は誰なのかが重要だ。俳優志望(演じる+夢)に加えて、左手で男を表し、右手でその男を指さし、指文字で「ゴ・ロ・ウ」とゆっくりやってみる。なぜ左手なのか。朗読はナレーター部分と吾朗、さやかの語りの部分からなる。吾朗とさやかの位置をはっきりさせて、ナレーター部分は中央真正面を向いて。ということは吾朗とさやかの位置を決めておけばいい。吾朗は左手で、右方向へ。さやかは左方向へ右手で表す。これは一貫した基本である。

これは「台所からひょいと、さやかの顔がのぞいた」でも出てくる。さやかがどこにいるのかが大事。
包丁を切るしぐさで台所を表し、右手で前を指さす。そのまま右手で「女」、「名前+さ・や・か」。右手はさやかなんだ、とろう者はわかるだろう。

「自分も聞こえないのに」。さやかのせりふだ。
自分自身+ろう、左にいる(とイメージして)吾朗を指さす。

「健聴者の世界ばかり見てる」
「~ばかり」をはじめは「たくさん、多く」としていたが、強調するために「だけ」としてみた。

「あのころ、どんなに頑張っても」吾朗のせりふ。左から右へからだを向ける。
「どんなに頑張っても」。日本語対応手話なら「頑張る+でも」とするだろう。ろう者が使う日本手話的な表現で強調する意味を込めて、「努力+一生懸命」としてみた。

一番、先生と意見を交わしたのは、ここ。
「さやかは、影のように動く吾朗の手話を見ていた。吾朗の悲しみが手から伝わってくるようだった」。ナレーションである。
ナレーションだから、真正面を向くが、ただ突っ立っているだけでは何なのかわからない。
左手は吾朗。右手はさやか。だから右手で女を表し、さやかであると伝えて次に左肩口そばに両手5指をひらいて縦に回す、「手まね」。「手まね」のすぐあとに左手親指を立てて「男」を右手で指さす。吾朗である。そのまま右手から左手へ、さやかが見ているように。
ここまでは、さやかが吾朗を見ているという状況を表している。

「吾朗の悲しみが手から伝わってくる」ように伝えなくてはならない。
左手親指を立てた「男」、吾朗と右手で目の下に泣いているしぐさをして悲しみのさまを。左手の人差し指と親指で円をつくり右手の人さし指と親指が円のなかを通るかたちを、左(吾朗)から右(さやか)へ動かしていく。そうすることで「悲しみが手からさかやへ伝わる」という心理描写ができる。

日本手話のポイントである、説明するのではなくイメージで表す、ということが分かりかけてきた。

もっともっと練習をして、本番にはもっといい表現ができるように。

修正に修正を重ねる2010/07/02 23:27:02

手話つき朗読『ゆずり葉』の練習と指導をいただく10週目。
おおよそ95%は大丈夫。あとは細かい修正と表現を変えたり直したり追加したり。

以前にも書いたことだけれど、さやかが吾朗に「……自分も聞こえないのに、同じ聞こえない人を見下げて」と語る場面。
左手で吾朗を表わし右手でさやかを表わす。さやかに向かって語る場面は右を向き、吾朗に向かう場面は左を向く。方向と手の使い分けで吾朗とさやか、または吾朗と、同じ聞こえない人を区別する。「自分も聞こえないのに」は吾朗に向かって左手で語り、「同じ聞こえない人」は右手で表わし、「を見下げて」は左手の吾朗を上にあげ、、「同じ聞こえない人」を表わす右手をいくぶん下にさげる。そうすることで吾朗が同じ聞こえない人を差別している、という意味を込めた。

同じように、「吾朗の手話も窓からの明かりでかすかに見える程度だ」という文を、左手で吾朗と手話を表わし、窓枠を両手でつくって右手で「窓からの明かり」、明かりが差し込むように表わす。ポイントは「かすかに見える程度だ」をどう表わすか。対応手話なら「あいまい+見える」とするけれどそれじゃ説明になってしまう。吾朗と手話を表わした左手の位置であいまいと表わすことで「かすかに見える程度だ」、つまり吾朗がかすかに見えるのだということを表わしたい。

もうひとつ先生から教わった今日のポイント。

「おれ、ずっと普通の学校で一人ぼっちだった」と「俺のやっていることは物まねにすぎない」。
両方とも「~だった」「やっていること」を、「同じ」という表現を肩越しに表わしていた。けれどどうもしっくりこない。というか重言のようにさえ思える。
前者の「一人ぼっちだった」を、「孤独」+「時代」としてみたら、小学校の6年間が孤独だったという表現になり、すっきりまとまる。それだけではなく意味も伝わる。後者はそのまま直さない。

繰り返し繰り返し練習を重ねよう。
本番まで、あと2カ月。

これからも変わっていく街2010/07/02 23:37:52

週末になると、墨田区に建設中の自立式電波塔「東京スカイツリー」を見に来る人で、建設現場周辺は混雑するそうだ。わたしの家からツリーが見えるし、すぐ隣の駅だから見物に行くこともできる。

社会人になりたてのころから東京を見続けて、墨田区だけではなく東京という街が大きく変わって来たなあとつくづく感じる。
有楽町界隈に足を延ばすことが多いが、電器店だのショッピング街だの、昔はなかった。銀座は以前から知っている店がまだある一方で外国のファッションブランドなどを多く見る。
一番変化の激しさを感じるのは秋葉原かもしれない。わたしが小学生のころは無線機店だとかラジオ店だとかが多かったのに、パソコン、カメラ、さらにはアニメ関連まであるのだから。あまりの変化に、ただただ驚くばかりだ。

東京ほど、これからも変わっていく街はないかもしれない。
20年後30年後、どうなっていくのだろう。

初めにゆっくりはっきり読むこと2010/07/03 23:54:46

今日から、朗読の声のご指導をいただく。本来はこちらがメーンなのかもしれないが、聞こえないけれど話せるというわたしにとっては、どちらもメーンだと言っていい。

いただいたアドバイスは、吾朗とさやかの読みをはっきりさせること。初めにゆっくりはっきり読むことで、聞き手に登場人物が2人いるんだなということが伝わる。
次に、さやかのいる場所をイメージ想像して語る。台所にいるのだと想像して語ること。

手話表現と共通したところもあり、もっともっと練習を重ねたいと、さらなる意欲をかきたてられた。

大変だけど楽しかった2010/07/04 23:39:08

おととい、金曜日夜から土曜日未明まで4時間をかけてカレーライスをつくった。そして今日は午後から難聴者仲間や手話通訳士の先生をわたしの自宅に招いてひとときを過ごした。

ちょっとつくりすぎたかもしれない。タマネギとジャガイモをそれぞれ8個。ニンジンは4本。大なべと中なべに分けてつくったはいいけど、多すぎたかな。

それでも8人もの量をつくるなんてそうめったにあることではない。つくってとても疲れたけれど、昔はああやって大人数を招いたりごはんをつくったものだね。奥さまの苦労を思いながらつくったのは言うまでもない。

今日は枝豆やナンなども買い求め、もちろんビールに焼酎も買ってきた。ビールが足りなくなってあわてて追加を買いに行ってきたけれど、それでも足りない。冷蔵庫の中にあった5~6本の缶ビールが消えた。

終わってどっと疲れがやってきた。
でも楽しいねえ。
話題があちこちに飛んで、手話表現やらワールドカップやら尽きない。秋の舞台についても、もしよかったらいらして下さい、とお話しした。

とても疲れたので今日はこのへんで。

2つのできごと2010/07/05 23:06:46

梅雨の蒸し暑い夕方。
仕事のあとで渋谷で、先週に続いて手話ソングダンスのワークショップに参加してきた。
『マンマ・ミーア!』だが、慣れてきてだいぶ動けた、と思う。
ワークショップの合間と終わってからの仲間とのおしゃべりも楽しくて、時間が止まらないかなと思ったほど、濃密な夜。

さかのぼって金曜日夜。
カレーをつくったあと、終わってからものすごいめまいと耳鳴りに襲われた。なんといったらいいのだろう。
「キーン」「ドーン」と音声で表すには難しいのだけれど、高い音低い音が交互に耳に聞こえてくるようなものだろうか。またレコードを高速回転にしたような「ギュルギュルギュル~」という音も聞こえる。しばらくしてからまるで地の底に引きずり込まれるような、からだが重くなって気を失いそうになる。いっそ気を失ってそのまま意識が遠くなってくれたら、なんて思った。これが立っていたらきっと倒れていただろう。
はじめてメニエール病の症状である、めまいと耳鳴りを経験したのは高校時代のホームルームのときだが、たまに年に何回か、こういうときがある。

手話のパフォーマンスやおしゃべりが楽しい。
耳鳴りとめまいで気を失いそうになる。

どちらもわたしのからだだから起こったこと。
折り合いをつけつつできるなら、楽しいことだけがたくさんある人生にしたい。いや、いまからでも十分楽しい人生になるよ。

完成したときにはどうなるだろう2010/07/06 23:17:11

まだ400メートルにもならないよ
仕事の締め切りが終わってとりあえず、ほっと一息ついたところ。

写真は建設中の東京スカイツリーだが、晴れた冬の日は遠く富士山からも見えるかもしれない。
わたしの家からもすぐ近くにあるこのツリー。週末は大勢の観光客や見物客でにぎわっている。

ツリーが建設されるまで、向島一帯は商店街がシャッターを下ろすなど、静かなものだったそうだが、この「ツリー特需」に、週末だけでもお店を開けるところがでるなど賑わいが戻ってきた一方で、こころない人たちが街を汚すなど、問題も起きているらしい。

それにしてもだ。
まだ400メートルにもならないのにこんなにも高く感じるのだから、2年後に完成したときにはどうなるだろう。

チェックにチェックを重ねて2010/07/07 23:32:14

♪笹の葉さ~らさら 落ち葉に揺れる

七夕の今日は夕方から手話つき朗読のご指導をいただく。

せりふ部分のチェックをいただき、細かい修正をしたり、からだの向きや動きをチェックしたりした。

プロであれアマチュアであれ、舞台を作り上げていくという、こうした積み重ねの連続が、大きな実となり花となることを、わたしは確信している。

使い慣れたものでないと落ち着かない2010/07/08 22:15:06

先週はじめに修理をお願いして、購入した代理店に預けた愛用の補聴器が戻ってきた。
梱包をあけてメーカーの所見を見ると、「アンプ腐食、断音、通信不良があり交換」と書いてあった。
福祉補装具のため、わたしが住んでいる区の福祉課に見積書を請求しなくちゃならない。
それはそれとして、やっぱり使い慣れたものでないと、落ち着かなかった。

なぜって、写真を見てほしい。
上は今回の修理期間中にお借りした、デンマークの「ファナック」社製。下は修理に出した、やはりデンマークの「オーティコン」社製だ。
色や大きさもさることながら、電池の大きさを見てほしい。
小さいほうの電池が、あまりにも小さすぎて、なくしそうになったことは何回もある。目立たないものであればいいというユーザーもいるから、小さいほうがいいかもしれないけれど慣れるまでちょっと大変だった。この補聴器を使っている人は慣れているのだろうね。

ともあれ、ほっと一安心。
またこれでいつもと同じ聞こえが戻った。