やさしさのある社会2007/07/27 23:58:10

日本代表とアメリカ代表が対戦し、好勝負を見せた、第3回アメリカンフットボールワールドカップ大会決勝戦からの帰りのこと。バスの中で生まれて初めて(!)席を譲られる体験をした。なぜその日だと覚えているかというと、めったに行くことのない川崎市で、しかもほとんど乗ったことのない川崎市バスだったからである。

いつものようにわたしは割引運賃を払うために身体障害者手帳を提示したのだけれど、そのとき「聴覚障碍があります」と口にしたらしい。で、それをみた、まったく知らない方が「どうぞ」とわたしに席を譲ってくださったのである。
一瞬何がなんだか分からず、間を置いて「席を譲られた」ことに気づいた。

いつもはわたしが高齢の方、妊娠していらっしゃる方などに席を譲るのだけれど、生まれて初めて譲られたというのは、なんとなく恥ずかしい照れくささを感じ、なんだかばつが悪いような居心地が悪いような、微妙な気持ちである。

で、最近のある新聞に掲載された、妊娠していることを示すバッジをつけるか否か、同性から「あんなものをつけないとだめなの?」と非難されたという投書とそれをめぐる異論反論を読んで考えさせられた。

わたしは一見すると難聴だとは分かりにくい、ということは何度も書いた。
補聴器を見れば分かるけれどね。わたしはスーツにつけたり、カードを首から下げたりして「耳マーク」と呼ばれている、耳が不自由であるというマークを見せることもある。

妊娠している女性、といってもさまざまである。知られたくない方もいらっしゃるだろうし、だからこそ自分の状態を周知する必要のある方もいらっしゃるだろう。ひとくくりにはできない。

難聴者といっても聞こえの程度はまちまち、各人に違いがある。その違いも認め受けいれることがお互いを理解することの第一歩である。
同じように、妊娠していることを示すバッジをつけるつけないは、それぞれであってよいのではないだろうか。

見た目だけでは分かりにくいという意味で、わたしのような難聴者と共通した悩み苦しみをもっていらっしゃるのだろうと推察できる。わたしは男性だけれど、そういう苦しみ悩みに共感できる人間でありたいといつも思う。
バッジをつけるつけないの是非が問題なのではなく、いかにお互いをいたわり分かり合うかが重要ではないだろうか。

そう思うと、席を譲られたこともすなおに「ありがとう」と感謝の気持ちでうけとめたい。
妊娠していることを示すバッジをつけることを非難するのではなく、「そういう人もいるんだね。たいへんだね」というやさしさのある社会でありたい。