備えあれば憂いなし2014/10/01 23:31:40

今日から10月。早いものだとつくづく感じる。

御嶽山の噴火は48人(その後47人と数字が訂正された。誤りを出しましたことを謹んでおわびいたします)という被害を出した。自然災害の恐ろしさこわさを感じたが、いつなんどき何が起こるかわからない。わからないからこそ少しでも備えておくべきだと妻と話し合っている。

ネットで避難具セットを探しているが、たくさんあればいいというものでもないし、足りなくても困る。
軍手だとかマスクだとかは家にある中から必要な品数だけ用意して、足りないものを購入するという方向で、妻と相談してすすめていくことにしている。

いつ何が起きても対処できるように。

点字ブロックの上に物を置いたり立ったりしないでほしい2014/10/02 23:24:49

今日から10月期のギターレッスン。
課題曲は妻は『四季の歌』。わたしは『みかんの花咲く丘』。

この歌を聴くとしみじみ、子どものころを思い出す。幼稚園のころにレコード(CDではない!)でよく聴いたからだ。とくに3番の歌詞がこころにしみる。
この曲は、先日放送が終わった『花子とアン』で村岡花子が文部省嘱託として、アメリカ教育使節団と日本政府のあいだに立ち、教育の機会均等を推進する教育改革に尽力していた、同年の1946年8月に川田正子さんが歌った曲だ。

いつか来た丘 母さんと 一緒にながめた あの島よ
今日もひとりで 来ていると やさしい母さん 思われる

わたしの母はまだ元気でいるが、それでもいつかはこの歌のように母を追憶するときがくるのだろう。

ともあれ教わって、だいたいのテンポと奏法はわかった。あとは練習を重ねるだけである。
近々、年末に高齢者施設でボランティア演奏を一緒にやる仲間と『四季の歌』とともにギターで合わせてみよう。

話は変わる。
今日、妻と一緒に帰宅途中の地下鉄駅でのこと。
わたしたちはホームの点字ブロックから下がって電車を待っていたのだが、わたしたちの前に点字ブロックの上に立っている男性がいて、わたしたちとその男性が、ホームの点字ブロック上を歩いてきた目の見えない人とぶつかりそうになった。こちらも驚いたが彼も驚いたに違いない。

都内の地下鉄では転落防止のための柵や自動ドアが設置されているところもあるが、この駅にはまだそれらはない。
ドアがあろうがなかろうが、目の見えない人には駅のホームはとても危険で歩きづらい。
妻にも言い聞かせてまた自分もそうしないようにしているのだが、今日のこの出来事の直後にホームを見渡すと、点字ブロックの上に立っている人がまだまだ多い。

意識はそう簡単には変わらないのだろうけれども、できるだけ、駅のホームでは点字ブロックの上に物を置いたり立ったりしないでほしい。目の見えない人にも見える人にも、お互いに危険だからだ。
点字ブロックの上に立つことで彼ら目の見えない人がどれだけ危険を感じることだろう。ちょっとした気配りと想像力と思いやりで、お互いが気持ちよく生きることができるのだ。

さまざまな国から選手がやってきている2014/10/03 23:36:19

Postseason players all over the map
http://m.mlb.com/news/article/96497638/postseason-gps-hometown-stories

フットボールシーズンと並行していま、メジャーリーグのポストシーズンがすすんでいる。カンサスシティー・ロイヤルズはオークランド・アスレチックスとのワンデー・プレーオフで勝ち、ロサンゼルス・エンゼルスと対戦してまず1勝を挙げた。

そんななかだが、ポストシーズンゲームに出ている各チームの出身地が紹介されている。
見ると実にワールドワイド。
ベネズエラだとかキューバからも出場している。やはり最大はアメリカで、カリフォルニア出身の23名、南部の16名、と州も街もさまざま。
アジアからは韓国、台湾、そして日本だ。

いかなる暴力にも屈しない2014/10/04 14:54:23

先日ある新聞社の元記者2人が、退職後は大阪と札幌の大学にそれぞれ教授、非常勤講師として勤めているこの2つの大学に脅迫文が届いた。
脅迫文には、教授や非常勤講師の退職を要求し、応じなければ学生に危害を加える、という。
「辞めさせなければ学生に痛い目にあってもらう。釘を入れたガス爆弾を爆発させる」ともあった。
わたしはいかなる理由があっても、こうした暴力、暴力によって自由な意見やものを言えなくさせ、自分の意見だけを押し通そうという行為には屈しないし、反対である。

一週間前に終わった、第9回コスモス朗読会。わたしは第2回から、手話と声の両方で表現している。まずこのことに触れなくてはならない。

わたしは5歳で聞こえなくなった。だんだん聴こえが落ちてきていまは左右ともに110㏈前後の聴力だ。110㏈というのはひらたくいってしまうと、ジェット機エンジンのエンジン音を裸耳、なにもつけない状態でやっと聞こえるというレベルである。健聴者だったらとても耐えられない音であり、空港の飛行機のエンジン整備スタッフは当然耳保護のために耳栓をしている。110㏈は、医学的専門的に言うなら、重度のろうに近いレベルである。いまこれを書いているキーボードの音もかすかにしかわからない。
その一方でわたしは健聴者と同じようにきれいに話せる。街でデパートやショッピングのときなど相対した人には話せるから、相手には聴こえているもの、と思われてしまう。しかしさきにも書いたようにろうに近い等しい聴力だから聴こえない。
きれいに話せる一方でろうであるという現実。それは、わたしがいったい何者なのか。ろう者なのか聴者なのかという問いかけを生んだ。どっちつかずのようなあいまいな思いで苦しんできた。しかし、朗読と出会い学んできて、朗読はたしかに声で表現するものであるけれど、聴者だけのもの、聴こえる人だけのものだろうかという疑問が生まれてきた。わたしのように話せるけれど聴こえないろう者にとっては声だけでは楽しめない。
聴こえない人聴こえる人、ともに楽しめる朗読もあっていいのではないか。そう思い、いくつもの反対や壁を超えて手話つき朗読にチャレンジしてきた。そこでわたしはろう者だと。しかし手話と声で語ろう表現しようという光をみいだした。やっと自分らしくなれたのだ。

卑劣な暴力、脅迫には屈しない2014/10/04 15:32:46

話を戻そう。
さきに書いた大学への脅迫文。
自分の意見を押し通そう、言いなりになってもらおうと、学生を人質にして、自分と異なる考えを持つ者を力づくで排除しようという。これを放任したり座視したりしては、わたしたちが自由にものを言ったり話したり書いたりすることが許されなくなってしまう。

朗読に置き換えると、もし朗読が声だけであり声だけが朗読だ、といってしまったら、手話はなんだろう。手話も言葉でありコミュニケーションでもあるのだ。聴こえる人には意外かもしれないが、声と同じくらいに手話で語る朗読もあっていい。手話もまた声と同じように自由に表現できる手段であり方法なのだ。
コスモス朗読会では聴こえる人も聴こえない人も手話がわかる人もわからない人も聴きに来てくださる。そこでどんな思いを感じたかは自由であっていい。出演者もまたいろいろな思いがあるだろう。その自由な雰囲気自由な社会を大事にしていきたい。手話も含めた、多様な表現が舞台を豊かにしていくのではないだろうか。

多様な考え、言論や表現や価値観がいまの社会に交錯している。その交錯していることが大事なのであり、もし意見があるならそれを言論で言えばいい。あなたの意見はわたしと異なるけれども、あなたが意見をいう権利も場も認めていこう。それが大事なことだ。

あらためてわたしは言う。
このような卑劣な暴力、脅迫には屈しない。気に入らないからといって力づくで排除しよう暴力で言いなりにさせようというのは、はっきり言ってテロリズムである。
自由な言論、自分と異なる考え立場を尊重しあうことが生き生きとした社会をつくっていく。
わたしは障がい者としても人間としてもキリスト者としても、卑劣な暴力、脅迫には屈しないし許さない。

台風接近2014/10/05 23:16:43

強力で大型の台風18号が接近、朝からわたしたちは雨の中、礼拝に行ってきた。

午後から本来予定していた、手話ソング練習の会はメンバーとやりとりして急きょ中止に。そのぶんを次回の打ち合わせや相談にあてたり休息をとるなどして過ごした。

明日も朝から台風の影響のため交通機関が混乱する恐れがある。余裕をもって動かないと。

「過去に経験したことのない」2014/10/06 23:24:50

昨日も書いた台風18号。
けさから、東京では天気が回復して青空が広がった夕方でもテレビで台風情報やその後の動き、各地の被害などを伝えていた。

それにしても。
まったく今年は自然災害が多いと感じる。例年に比べてというより、「過去に経験したことのない」という表現がまるであたりまえのように感じられるほどだ。

わたしたち人類なんて、この地球の歴史からみればわずかな時間をわがもの顔で生きているに過ぎない。
地球温暖化など人類がつくりだしたもののために、地球がおかしくなっているとしたら、次世代次々世代に、なんと言えばいいのだろう。

なんのためにあるのか2014/10/07 23:15:34

明日は秋晴れという予報だが、また台風がやってくるらしい。週末土曜日はともかく日曜から週明けはやっかいな天気になるかもしれない。

青色LEDを発明したという業績で日本人3人がノーベル物理学賞を受賞したという。
わたしの家から直線で30㌔の距離にある東京スカイツリーはライトがすべてLEDだというし、震災以後わたしの家にも徐々にだがLED電球を取り入れている。高価なものだからすべて一気に買い替えるわけにはいかないのが残念。

科学や技術の進歩は人間の生活を大きく進歩させときには豊かなものにしてくれる。
補聴器だってわたしが小学校4年生で初めてつけたころはまだ煙草の箱よりやや大きいサイズだったのが、電子技術、部品の小型化などでかなり小さいサイズになった。
しかし一方で大量殺りく兵器になったり、事故につながったりと人間生活を不幸にもする。
思い出すのは100年前の第1次世界大戦。
あの大戦ではじめて飛行機が兵器として使われた。第2次世界大戦で長距離戦略爆撃が行われ、2つの原子爆弾投下にまでなった。

人間の生活を豊かにしてくれる一方で、不幸な使われ方をしたものもある。
いったいなんのためにあるのか、と考え込んでしまった。

コミュニケーションの難しさを感じそこから理解が深まるかもしれない。2014/10/08 23:20:02

皆既月食 2014年10月8日18時50分過ぎ、東京都文京区、水道橋駅で
仕事を終えて手話サークルへの途中。
歩道橋や橋の上でカメラを宙に向けている大勢の人がいた。
何事かと思っていたら。地球の影に満月がすべて隠れ、赤黒くにぶく光る「皆既月食」だった。

わたしもカメラを向けて撮影したのが、この1枚。

手話サークルでは、電話を依頼されたとき、という設定で模擬の電話依頼をしてみた。
たとえば公衆電話やオフィスで聴覚障がい者が何か頼みたいとき、聴者に電話を依頼するというシチュエーションだ。

けっこうこれが難しくまたおもしろい。
手話がわかる人がいるからサークルでは当然手話で依頼し、受けた人も手話でこたえる。けれど現実には手話が通じないとかわからない、ごく普通の聴者に頼むこともあり得るだろう。そういうときは筆談で頼み、書いてもらって確認することになる。こちらも依頼した内容がちゃんと伝わっているか不安だし、頼まれたほうも手話であってもきちんと読み取り、電話で聞いた内容を手話で伝えられるか。あわてたりあせったりしてしまいやすい。日常会話とはまた異なった難しさがある。
手話がわかるという前提だからサークル内では笑って済ませられるけれど、もしこれが災害や事故などの緊急時や、依頼の相手が手話を知らない一般の聴者だったら、とても笑ってなんかいられない。

できたら模擬の電話依頼をまたやってみたいと思うし、自分で依頼するとイメージして何か原稿を書いて、妻だとか知人に頼んでみると、お互いにコミュニケーションの難しさを感じそこから理解が深まるかもしれない。
久々に楽しい学びになったと思う。

志も何もない 想像力の欠如2014/10/09 23:46:33

世界を震撼させている、イスラム国という国際テロ集団。一応国家という名を使ってはいるが、まったく無実の外国人ジャーナリストを処刑するなど、暴力は目に余る。彼らはイスラム教を信じて、欧米人と見たら殺せと主張している。
そのイスラム国には欧米やアジアアフリカからも、イスラム教の過激思想に染まった人たちが入り込みテロ訓練を受けている。いずれ彼らは母国に帰ってテロを起こすのではないか、と危惧不安が生まれている。

そのイスラム国に、日本の若者が参加しようとしていたというニュースは驚かされた。
これまで伝えられている報道を整理すると、北海道の大学に通っている大学院生だが、東京にある古書店で「勤務地 シリア」などと書かれた張り紙を見て、イスラム国にルートがあるという元大学教授を通じてシリアへ密入国、イスラム国に加わろうとしていたほか、火薬や武器に関する書物を持っている、イスラム教に関する書籍を持っていたという報道もある。

この大学院生に同行取材しようとしていたジャーナリストは彼の印象について「イスラム教に詳しいわけでも思想があるわけでもなく、ただの軍事オタク」と言っていた。
当の本人は就職活動がうまくいかない、日本の状況に嫌気がさしていた、人を殺してみたい、などと言っているという。

またぞろ出てきた、「人を殺してみたい」という発言。
ひとのいのちを奪う殺めるということのリアリズムが感じられない。人を殺すということがどれほど恐ろしいことなのかわかっていない。単に日本では実感できない、体験できない厳しい世界をのぞいてみたいというだけの軽い甘い欲求で、自分のやろうとしていること考えていることがどれほど恐ろしいことか、周囲に迷惑を与えることかわかっていないのだろう。

現実をみてみると日本は、テロの脅威にはさらされていないし、宗教による抑圧も暴力もない。平和に見える。
そのことが、連日大きく報道されている中東やイスラムの世界とひきくらべて、日本にはない、ある種の刺激を感じて、行ってみたい見てみたいと思ったのだろう。そこに行けば、もっと違ったなにかがあるのではないか、と。ジャーナリストが取材したいというのとはちょっと違う。

どう考えてもわたしはイスラム国に賛成も理解もできない。わたしがキリスト教だから、宗教の違いが理由ではない。イスラム教は本来、テロや人を殺したり抑圧したりする宗教ではない。キリスト教にしても仏教にしてもそうだ。でなかったら、なぜ2000年も続いているのだろう。

いまの日本の若者、とひとくくりにしてしまうのもどうかと思うが、確かにネット世界でいろいろ情報を得たり見たりできる反面、じっくり考えてみるとか、どういうことなのかとか、深いところまで見る深慮に欠けているのではないか。想像してみることが少ないのではないか。

彼を非難するのはたやすいのだけど、やっぱり印象としては底が浅い、現実感のなさと自己中心さしか感じられない。
若いうちはまあ未熟な部分ゆえに背伸びしたいというものだ。わたしだって若いころはそうだった。
だがそれともちょっと違う、なんというのだろう。想像力の乏しさ幼さを感じさせられる、今回の事件だ。