9・11から11年2012/09/11 22:56:18

11年前、世界を震撼させたアメリカ同時多発テロ。
テレビを見ると特集もほとんどないのだけれど、あれから11年がたってもなお、世界はテロや戦争の恐怖からさめない。

朗読で使うテキスト「最後だとわかっていたなら」は、息子を不慮の事故で亡くしたノーマ・コーネット・マレックさんの作品。同時多発テロがきっかけで広まったが、マレックさんも2004年にがんで亡くなったという。

きっかけはどうであれ、亡くなったマレックさんもまさか、自分の書いた詩が世界中で読まれることになるとは想像していなかっただろう。
BGMで使う「G線上のアリア」は1957年にレコーディングされたものだ。これもまさか半世紀以上たって聴かれるとは思っていなかったにちがいない。

わたしも人生の折り返し点にさしかかりつつある。いやもう通過したかもしれない。
さしかかったか通過したかはさほど重要なことではない。
重要なことがあるとしたら、残りの人生、残りの時間というものを意識して生きるかいないか、だけだ。
結果が大事なのではなく、神さまからいただいた賜物恵みを生かしたか生かさなかったか。

歴史に名を残すような人はそうそう多くはない。ほとんどは無名の知られないままに人生に幕をひく。
それでいいのだ。
ささやかでいいから、名もなく知られることがなくても、神さまからいただいたこのからだと耳と口とで精いっぱい、神さまの恵みをあらわしていくこと。感謝しつつ、生を終えるときに「よかったね」と言えるように。

自分らしさと見た目の両方2012/09/12 23:34:32

夏が終わった……はずなのに、なぜか今日も暑い一日。
水不足ということで取水制限も始まっている。

さて舞台の取り組みも今週土曜日で残すところ14日、2週間しかない。
明日もう一着のスーツを受け取りに行く予定だけど、見た目に左右されることなく自分らしさを出していくことが大事である一方、見た目も大事なこと。舞台に立つということは裸にされると同じこと、とつねづね思っているが、見た目があるから手話も動きも表情も含めてすべてがお客さんに伝わるのだろう。

明日もまた、実り豊かな一日でありますように。

ギョッとするもの2012/09/13 23:44:53

先日購入したスーツのうち、すそ直しを再依頼していたものができあがり、今日取りにいってきた。
やや濃いグレーの色が舞台にもきっと映えるに違いない。

わたしが聴こえなくなった原因はいまとなってはもうはっきりわからないのだが、はしか(麻疹)だときいたことがある。
そのはしかに次いで、風疹もやっかいなものだ。風疹にかかって失明したとか難聴になったとかいったケースがある。
昨日の手話サークルでもあるろう者女性が風疹で聴こえなくなったと話していた。

成人男性中心に「風疹」流行続く 積極的に予防接種を
http://www.tokyo-np.co.jp/article/living/health/CK2012071002000146.html

関西から関東都内にかけて、風疹が流行しているらしい。
すでに全国の患者数は今年6月24日までに453人だという。

テレビや新聞で風疹、はしかの記事を見るとギョッとする。
できるだけワクチン接種を受ける人が増えてほしい。

気持ちや感情をいかに込めるかということ2012/09/14 23:30:26

朗読の練習を続けてきてあらためて強く感じるのは、気持ちや感情をいかに込めるかということ。
棒読みでは手話があったって絶対に通じない。音声と手話を同時にやるというのは以前にも書いたように、間があいたり不自然な手話になったりというジレンマがある。また、手話というより振付になってしまうおそれもある。

そうならないように、詩を書いたマレックさんの心情、わたしがここまでこの詩を読んだり社会の出来事から感じたりしたなかで得た気持ちや思いを込めること。

中途難聴者の場合はとくに、表情に力がこもっていないと言われる。文章や文の表現に頼ってしまいやすいから。
ろう者にも通じる舞台をつくりたいというのがわたしの思い。
だからこそ気持ちや感情を込めて舞台で演じたい。

微妙な違和感2012/09/15 10:29:41

2日前に左側の補聴器の電池カバー部分が根元から折れてしまった。
仕事中になにげなしに左側の補聴器に手をやると電池カバーがはずれかかっていた。耳から外した瞬間に折れてしまい、一瞬顔面蒼白になってしまったが、小さな紙箱にクッション材でくるんで梱包して昨日、販売店へ送った。

で、いまはどうしているかというと左側にはなにも着けていない。つまりまったくの裸耳なのだ。

少しでも残存聴力があるのならそれを生かさない手はない、と、そして人間はもともと左右の耳で音を聞き分け、方向をつかんでいる。
だから最近は左右に補聴器をつけるようにすすめられているのだが、代替品がないのだから仕方ない。

なんだろう。
右足だけ靴下をはき、左足ははだしで革靴をはいているような、微妙な違和感がある。
でも永遠に続くわけじゃないのだから、たぶん舞台までには間に合うと思う。

一度やってみたらいい2012/09/16 23:18:04

昨日は舞台前の最後の朗読のレッスン。
リハーサルというか舞台に上がり、演技を終えて降りるという想定のつもりだったのが、わたしだけ全部をやることに。
「あれれ? いいのかな」と内心つぶやきつつ、結局最後までやってしまった。

別にもったいつけるつもりはなかったし、まあ仲間の前でひととおりやったら、度胸がつくだろう。

あと2週間もない。できることを最大にやること。後悔のないように。

なんでもかんでも撮ればいい、というのだとしたら2012/09/17 23:03:46

英王子夫妻、カメラマンを刑事告訴 写真掲載問題
http://www.asahi.com/international/update/0917/TKY201209170288.html

英キャサリン妃の半裸写真掲載 王室激怒、提訴との報道
http://www.asahi.com/international/update/0914/TKY201209140438.html?ref=reca

有名人となるとプライバシーはないも同然、あるいはプライバシーをさらされるのもしかたない、という声をきく。

だがダイアナさんの悲劇から、英王室はかなり神経過敏になっているという。「キャサリン妃を『第2のダイアナ』にするつもりか」という批判の声もある。

ネットですぐにばらまかれる時代。いったん出たものは取り返しがつかない。
それ以前に、王室であろうが有名人であろうが、なんでもかんでも撮ればいい、というのだとしたら、どうだろう。

ダイアナさんのとき、あんなところまでパパラッチと呼ばれるカメラマンが彼女を撮影しようとした。事故が起きた後、救助しようとしなかったとも伝えられた。
パパラッチのようなカメラマンがいるということは、わたしたちのなかに有名人のプライバシーを知りたい、のぞき見したいという欲求があるのだろう。のぞき見してもいいのだという醜い部分があるのだろう。

この問題は考えれば考えるほど根が深い。

舞台の前に戻ってくるのならラッキー2012/09/18 23:38:34

先日修理をお願いした補聴器について、メーカーから返事がかえってきた。
それによると、補聴器の電池カバー部分(バッテリードアと呼ぶのだそうだ)以外にも、アンプの腐食やサビなどがあって、音も割れていたのだそうだ。

たいへんだけど、舞台の前に戻ってくるのならラッキーでもある。

その舞台について、今日夜、喫茶店でパソコンにビデオをつないで映像を確認しながら手話表現の直しや修正など細かいところを教えていただいた。

今週土曜日で残り一週間。
気合いが入るのはいうまでもない。

これほど難しいものはない2012/09/19 23:47:24

手話サークルのあと、舞台当日にお配りするアンケート用紙をコピーしてきた。その数、200枚。
舞台当日開場前にプログラムにはさんでおき、入り口に紙袋を置いておきます。おいでになられたみなさまがたからのご回答ご返事をこころからお待ちいたします。

さて。
今回の台本にも出てくるが、「愛する」ということを考えてみる。
口で言うのはとても簡単なことだけれど、これほど難しいものはない、かもしれない。

いくらこちらが愛する、愛したいと言っても、向こうにその気がなかったら意味がないどころか空回りするだけである。空回りするだけならまだいい。迷惑、いや追いかけまわしては、もう完全に自分だけの思い込み、いや押しつけでしかない。

愛するとは、自分の気持ちだけを押しつけることではない、と思う。
自分もだが、相手もあってのこと。相手がわたしを愛してくれるかはわからないにしても、相手のことを思うこと抜きにはありえない。

みんな自分がかわいいのはもちろんだ。自分を大事にしたいし、自分によくしてほしいと思う。
一方で、相手のためになりたい、相手のために生きたい、という仕える犠牲になるという思いもまた、愛である。

自分だけが正しいというのではなく、自分の思いを強制的に押しつけるのでもなく、相手にもなにかしらのいいところがあり、すばらしい魅力なり何かかある。それを見つけ認めていくこと。暴力には反対である。どんなに自分たちが正しいとしてもだ。

声高に愛を強調するだけでなく、それに従いなさい、などというような愛は、ほんとうの愛ではなく、よこしまなものでしかない。特に政治家や権力者がそういうことを言う時ほどやっかいなものはない。

自分も相手もあっての愛であろう。自分だけが正しいというような押しつけのような愛は、まっぴらごめんだ。

愛するという言葉は美しいし、本当に愛したい人に向けて語られるなら、これ以上の喜びはない。
だが、押しつけや強要や自分勝手な思いで語られるなら、これ以上扱いにくく迷惑な言葉もない。

便利なものはかえって不便?2012/09/20 23:23:17

18世紀や19世紀のころの、欧州の羽毛ペンなどで書かれた手紙を見たことがある。内容がわからなくても、流れるような字体や文字がとてもきれいだった。
時代が下って、いまの外国人が書いたなど手書きの手紙をみると、字が読みにくいなあと感じたものだ。タイプライターなどの影響だ、と聞いたことがあるが、実際はどうなのだろうか。

メール利用で「漢字書く力が衰えた」66%
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120920-OYT1T01239.htm?from=y10

文化庁が発表した「国語に関する世論調査」によると、パソコンやケータイなどのメールのおかげで文字を正確に書く力が衰えたと感じる人が66%を超えたという。
また手で文字を書くこと自体を面倒だと感じる人も40%を超えたとも。

うーん。
わたしもたまにではあるが、終日文字を書かない日もある。
さすがに面倒だと感じたことはないが、それでもこういった調査結果を見ると妙に納得できる。

便利なものだからつい、漢字変換や文字入力などに頼ってしまい、自分の手や頭で考えることが少なくなるか面倒くさくなるか。

これはほんとうに大きな問題である。
これから大きくなる子どもたちは、極端な話、生まれた時にすでにパソコンやケータイなどがあってメールもあたりまえに使いこなせる環境にある。そういったなかで文字を書く、読むといった、頭を使う機会がどれだけもてるか。文字を書くという行為に接することができるか。
大人の姿勢や態度が重要なことはいうまでもない。

使うなとも使っていけないとも言えない。そばにあるのなら使ってみたいだろうと思うのが自然だからだ。

まずは率先して大人がみずから手で文字を書くこと。子どもはそれをみて育つ。

しかしまあ、なんとわたしたちは便利なようでいて、かえって不便なものに囲まれていることだろう。