愛する人を送った思い出2009/03/27 22:50:37

やや古い話題で恐縮だけれど、このあいだアカデミー外国語賞を獲得した「おくりびと」について、ここでも何度か書いた。
あれから、発売されたDVDもまだ見ていない。字幕があるならいいけれど、そうではないようなのでちょっとためらいを覚えているのだ。

わたしが高校進学を控えた中学3年生の時、祖父を送った。老衰だった。
何度か見まいに行って雰囲気で、そう先がないということは理解できたのだけれど、亡くなった直後、親せき、わたしの両親、集まってきた者皆がとても悲しみ慟哭していた。
すぐに医師が来てからだをきれいに拭き、祖父の信じていた浄土真宗のお坊さんが鳴らす鐘にあわせて居合わせた者すべてが、祖父の遺体を清め、最後に鼻と口に綿をつめた。だんだん冷たくなっていく祖父のからだは、たしかにこわいという思いを抱かせたが、次第に、死とはなにか、愛する者がもうそこにはからだだけの、息も声もしない、単なる肉体だけの存在でしかないという事実、そしてからだをきれいに拭き清める行為で悲しみをともに分かち合うということを学んでいった。

あれからも、何回か、死や葬式に直面する機会があった。クリスチャンになってからはほとんどがキリスト教式の葬儀であった。仏教とは異なるが、死別の悲しみは変わるところがない。キリストを信じることで、死んでもなお生きている、キリストによっていまは会えないけれどいつかはまた会える、天国にて安らかに神のみもとでまもられている、という思いを感じた。

わたしたちはなかなか自分の死を意識することができないのだけれど、生きている危機、どん底というか追いつめられたというか、明日がないという場面にぶつかって初めて、自分が限りある存在なのだということを知る。病気であれなんであれ。
と同時に愛する者を送ることで、いつかは自分もまた送られる側になるのだ。どういうかたちで送ってほしいか。少しずつ自分なりのイメージをつくっていく。

もう遠い昔の、祖父を送った出来事を思い出しながら、死を考え、同時にいま生きているということを大事にしていかないといけない。「よい死はよい生」であり、その逆でもあるから。納棺師だけではなく、家族や友人に泣いてもらえるような、いい人生を送りたいと、思う。

なぜか、ヴィヴァルディの「四季」が耳の奥で聞こえる……。

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