ずっと前向きに、しかしわずかでもいいから2017/12/06 21:39:57

この星で生きていって、つらいことも苦しいこともある。
でも、それでもわずかでもいいから、生きてきてよかったといえるほうが、よりずっと前向きでありそれこそが神さまに喜ばれることだと思う。

一日を終えるときに「よかったね」と感じられるものを思い出せるように。

どう言葉をかけたらよいのか、わたしにはわからないほどだ。2017/08/20 22:40:11

だいぶ体調が戻ったが、今日、突然左腕に力が入らないときがあった。わずかな時間だったのだけど腕に力が入らない。ギターのネックを握る腕でもあるのでこわかったが……。

スペイン・バルセロナなどで起きたテロ事件が今日も報道されていた。イスラム教の指導者から過激思想を吹き込まれた、モロッコ出身の若者が起こしたと伝えられている。中には未成年の少年もいたという。

勢力が衰えたとは言っても、世界にテロの恐怖をひろげているイスラム国によって家族を失った人たちもいる。どんな国どんな文化であれ、家族を失うこと以上の悲しみはない。イスラム教が悪いのではない。同じようにキリスト教が悪いのでもない。悪いのは、人のこころにつけ込んで純真なこころにつけこんで、過激思想を吹き込む人間が悪いのだ。彼らにとっては正義かもしれないが、その正義がどれだけ多くの人のこころとからだを傷つけ悲しみに突き落としているのか、理解しようとしていない。

テロによって、戦争によって家族を失った深い悲しみの中にある人たちにどう言葉をかけたらよいのか、わたしにはわからないほどだ。

主イエス・キリストの慰めと平安が豊かにありますように。

自分に問いかけている。2017/07/23 23:17:07

今日ははーとふるはんどの稽古はお休み。久しぶりの浦安教会礼拝に出席、そのあと都内で用事を済ませて、千石にある福音ルーテル小石川教会にも行ってきた。
はーとふるはんどというかたちでキリスト教を前面には出していないけれども、がん患者、ろう者、話せるということを通して伝えたい。そのために自分のやっていること、信仰を保ち続けること。妻にも周囲にも、しっかり伝えていくこと。

いろんな意味で、2つの教会でのメッセージを聴いたり読んだりしながら自分に問いかけている。誇らなくていい、誇るものではないからこそ、キリストに対して神に対して、はーとふるのメンバーや妻や周囲に対して、しっかり証をたてていきたい。
あすからまたがんばろう!

たとえ自分と異なるとしても2017/06/28 23:19:27

ミルトスの木陰で 小林麻央さん
http://rhythmsofgrace.blog.jp/archives/23003140.html

市川海老蔵さんのお父さん、12代目の市川團十郎さんが信仰していた神習教にもとづいて、小林麻央さんの葬儀が行われたとか。
それについて、神道であることを理由にいろいろ言う人がいるでしょう。たとえば天国に入れないとか、神はキリスト教だけだ、とか。

でもわたしは思います。
そういう他宗教を批判するから、キリスト教も含めて一神教は排他的だ、と。そして批判するから争いが起きるのだと。

小林さんの生涯は、亡くなった後も多くの人のこころに感動を呼び起こしています。
たとえ自分と異なる信仰であったとしても、多くの人にこれほど影響を与えたものなのだから、宗教や信仰を批判非難するのはごう慢であると。思い上がりではないでしょうか。

「ミルトスの木陰で」の筆者、中村佐知さんはクリスチャンです。けれど小林さんのことをこころから悼み、ブログにも書いています。
わたしも、どういうふうに死ぬか、どういうかたちで悼まれるかわからないけれど、批判非難で終わるようなことは言いたくないしされたくありません。もちろん他宗教の方を非難するようなことも言いたくありません。

「あらゆることを喜べるように」2017/05/26 22:52:14

「ニューヨークの物理療法リハビリテーション研究所の受付の壁に掲げられている作者不詳の詩」というのを知った。

-----ここから詩 開始-----

大事を成そうとして、力を与えてほしいと神に求めたのに、
慎み深く、従順であるようにと弱さを授かった。

より偉大なことができるように健康を求めたのに
よりよきことができるようにと病弱を与えられた。

幸せになろうとして富を求めたのに、
賢明であるようにと貧困を授かった。

世の人々の賞賛を得ようとして、
権力を求めたのに、神の前にひざまずくようにと弱さを授かった。

人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、
あらゆることを喜べるように命を授かった。

求めたものは一つとして与えられなかったが、
願いはすべて聞き届けられた。

神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、
心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた。

私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ。

-----ここで詩 終わり-----

なるほどなあ。

ちょっと横にずれる。
わたしはクリスチャンでもあり、ろう者でもある。
日本の全人口数にしめるクリスチャン数は年々減少傾向にあって200万人とも。一方、中途難聴、ろう者を含む聴覚障がい者数は600万人だと以前聞いたことがある。

みんながみんな強じんなからだや健康が与えられるわけではない。
むしろこういうやっかいなからだを与えられたことは、この詩にあるように、健康を求めるのではなく、なにかわからないけど、大きなことができるようにやっかいなからだを与えられたということなのかもしれない。その「大きなこと」は「世の人々の賞賛を得」るものではなくて、「権力を求め」るものでもなく、「神の前にひざまずく」弱さからはじまるのかもしれない。こういうやっかいなからだであることで、「あらゆることを喜べるように」なれたらと思う。

今日も朝晩、おなかの内側からチクチク痛みを感じた。
それが、「あらゆることを喜べるように」つながればいいな。

雑感2017/05/22 21:41:02

キリスト信仰を持ったから自分が正しいとか自分の信仰が絶対であるとかいう思い上がりこそがまちがっている。
そしてそれはカルトであり、自分を神に等しい位置に置くことなのだ。自分が熱心なキリスト教徒であるならば、なおさら他宗教を信じる人はもちろんのこと、それらを尊重しそこに生きている人を尊重すること。

多様性多様な文化を受け入れられない人もいる。
もちろんそれにはそれなりの理由があろう。

けれども自分がよって立つところに強い確信を抱いているならば、同じように確信を持っている人のそれもまた尊重されるべきである。その相手が自分を攻撃したり否定しようとしない限りにおいて。

あくまでも自分が正しい、神にも等しいと言い張るところに問題があるのだ。

与えられたことに精いっぱいこたえていく2017/05/14 22:01:25

われわれが人生の意味を問うのではなく、われわれ自身が人生の意味を問われているのであり、答える責任があるのだ。(ヴィクトル・フランクル)

キリストの教会にとって、最大の脅威は、偽善でも無関心でもヘタな説教でも不道徳でも弱い信仰でもなく、未成熟な信仰ではないだろうか。キリスト者の成熟とは、クリスチャン歴何年といったこととは関係がない。キリスト者の成熟とは、神のことばと神の霊に絶えず浸っているいのちが結ぶ実である。知識の量ではなく、成長しつつある識別力によって測られる。キリスト者の成熟のしるしは、有能であることや優れた賜物を持っていることではなく、謙遜さと清い愛である。キリストにあって成熟していく秘訣は、どれだけ多くのクリスチャン的な活動をするかではなく、キリストに信頼していかに自らを委ねていくかにある。(あるクリスチャンサイトから)

このブログを読んでくださる方の中にはクリスチャンではない方もいらっしゃる。
信仰の押しつけととられては不本意だけれど、思いをつづりたい。

わたしはどこに行っても普通に話せる者だ。そして手話と音声・書き言葉の両方で日本語ができコミュニケーションができる。
少数者としてのややこしい立場であり、がん患者になった。
そのことが、ようやく、フランクルの言うところの「人生の意味を問われているのであり、答える責任」を自分のこととして意識させられる。
次に、キリスト者として、自分の正しさやクリスチャン的な活動ではなく、自分が少数者であり、「人生の意味を問われているのであり、答える責任」ゆえにこそ、キリストに信頼をおく、委ねていくこと。

キリスト者であるということはそれだけでも日本では少数者である。さらにろう者で話せて、がん患者。
きついけれどこの与えられたことに精いっぱいこたえていく。それがわたしの生きる使命なのかもしれない。

ノストラダムスブームを経験した苦い思い出2017/05/09 23:38:14

中学時代のころ、『ノストラダムスの大予言』シリーズを熱心に読んでいた時期があった。

「世界の終わりが来る来る」って大騒ぎしていかにも、自分が世界のすべてを知っていたかのような、壮大な思い上がりに浸っていた経験だった。幼稚だったともいえるし、背伸びしていたともいえるし。

1999の7の月が終わっても21世紀のいま、わたしはがんになっても生きている。がんはさておくとして、あまり世界の終わりだとかキリストが再臨するとか空中でキリストと会うとか、未確認生物だとかUFO発見だとか、いかにもそれくさい話には飛びつかないことにしている。

① 9・11はアメリカ政府の自作自演だ
② 3・11東日本大震災は地震兵器が起こした
③ アポロ11号は本当は月に行っていない

いまでもネット内外でこういうことを平気でいう人がいるらしい。

そしてこういう陰謀論だとか、いかにも知っていると言わんばかりのことを真顔で言う人ほど、疑うことを知らないしない確かめようとしない。だまされていることに気づかない。疑うことは悪いことなんだと思い込んでしまう。
はっきり言ってしまうとカルト宗教と同じである。物事を見る態度姿勢がそっくり同じということが言える。

信仰もそう。幼稚な未熟な思い上がりのようなところから、もっと成熟したものへたどりつきたい。それこそが大事であり賢明な姿勢だから。

いま一度立ち止まって考えてみる2017/05/07 23:05:08

キリスト者となって30年あまりになる。
念願であった同じクリスチャンの妻を迎えることができた。それはいいのだけど、はたと立ち止まって考えてしまう。

「わたしたちははたして他者からどう見られているのだろうか?」

よく日本人は海外に出ると「日本人らしさとは何か」を考えすぎてしまうとか、外国人からどう見られているかということを極端に、いい意味でも悪い意味でもとらえてしまいやすい。
それはまた別の機会にゆずるとして、日本社会でキリスト者はこの30年、全人口の1%前後と言われ続けている。少子高齢化が進んでいるいま、爆発的な人口増加も難しいだろう。

クリスチャンとして考えなければならないことは多岐にわたるけど、一番考えなければならないことは、自分の姿勢を見つめることに欠けていないか、という内省というか自分を見つめることではないだろうか。
周囲への伝道、家族や両親への伝道ということを考えると、私はどうしても自分のやってきたことに疑問を抱く。つまるところ、クリスチャンではない人たち、キリストを知らない(いかにもこういう言い方をするところにごう慢さを感じるのだけど)人たちに対して自分は知っているんだ、神に知られているんだ、教えてやろう、というような思い込み思い上がりがないか?
そういう、外からの目に気づかない気づいていないまま、かたくなに自分の姿勢を他者に押しつけようとしていないか?

わたしはどうだろうか。
いま一度立ち止まって考えてみることも大事だろう。

汝は我等を助くるか、はた我等の敵を助くるか2017/01/12 22:26:19

やっぱり昨日の疲れはいかんともしがたく、今日は終日自宅で休養にあてた。

さて久々に聖書、それも旧約聖書をひらいてみた。ヨシュア記5:13~14。

エジプトを出て放浪するユダヤの民のひとり、ヨシュアという人物が書いたとされる文書であるが、5章13節からの記事は、エリコにいたときにヨシュアが聖なる所へと足を踏み入れてしまい、サンダルを脱ぐよう「主の軍の将軍」に命令されるという内容である。
だが、ヨシュアの前に立った人物は、抜き身の剣を持っていた。それをみたヨシュアはこう語った。「汝は我等を助くるか、はた我等の敵を助くるか」と。それに対して彼は「否我はエホバの軍旅の将としていま来たれるなり」と答えた。
ヨシュアが「お前は敵か味方か」と自分を基準、自分を中心に相手を峻別し、選別したのに対して、剣を持った男は、自分は「主の軍の将軍である」と答えたのだ。どういうことだろう。
わたしは思う。自分を中心に自分を基準に置くごう慢な思い上がりではなく、「わたしのための神」「わたしの」ではなく、まず初めに「神が」おられ、「神のためのわたし」であることに気づくべきだ思いをいたすべきだ。

そこで思い出すのは、現地時間で11日、メディアの前で大統領選挙後初めての記者会見を行った、ドナルド・トランプのことだ。
そこでは「中国やメキシコや日本がアメリカに敬意を示すようになるだろう」「わたしがアメリカを偉大な国にする」など、「わたしが」「わたしが」のオンパレードというか、自分がアメリカを復活させるのだといわんばかり。これだけアメリカを分断させたことや、多くの人に支持を受けたことへの感謝や謙虚さなどはまるで感じられなかった。そればかりではない。メディアを分けて、ゴミだのと名指ししただけではなく、質問を受け付けないという態度まで見せた。

尊敬も敬意も、自分から口にするものではない。
ふだんの振る舞いや言動や何気ない行動からにじみ出るものである。
その前日にお別れ演説を行ったバラク・オバマ大統領は、登壇するなり多くの聴衆から拍手で迎えられ、拍手をやめるようにうながしたあとで「ごらんなさい。わたしがレームダック(死に体)だということがおわかりでしょう? だれもわたしの言うことを聞かないから」とユーモアを込めて演説を始めたのと比較すれば一目瞭然であろう。政策のよしあしや評価はともかく、どちらが人物として尊敬できるかというものだ。

トランプに話を戻す。
まさに「汝は我等を助くるか、はた我等の敵を助くるか」という反知性主義思考、二元論思考であり、敵と味方を分ける、自分に意の沿わないものは敵だ、ゴミだという自分中心である。こういう人物が権力を持つとどうなるか。過去の歴史がいくつも証明している。
アメリカ大統領というのはCommander-in-Chief、アメリカ軍の最高司令官であり、たしかに強大な権力を持つ。だからこそ自分に課せられた権力や職務の重みを自覚しているべきなのだ。だがトランプにはそんな姿勢や考えがないのだろう。あくまでもビジネスであり自分が中心なのだろう。

これから先のアメリカそして世界がおもいやられる。