歌のメッセージと シンプルなサウンド2014/02/21 23:07:03

ピート・シーガー「SEEDS」 バンジョーを背負ったピートさんが描かれている
先日聞いた、ピート・シーガーさんが亡くなったというニュース。

「一人の小さな手」は本田路津子さんの歌で知っているし、記事にもでた「We Shall Over Come」はわたしたちの賛美歌では「勝利を望み」という題名で、いつも2月11日あたりの礼拝で歌われていた。

ペンテコステ教会や信仰についてちょっと話題になったことがある。
 
わたしはペンテコステ派の教会でよくみられる、手を上げて歌うスタイルやロックバンド風賛美を認めているけれど、わたし自身はあまり好きじゃない。
恥ずかしいというのではない。もし恥ずかしかったら朗読舞台や手話ソングをやることはありえないから。

なんというのだろう。大仰なのが好きじゃないと言いたいのだ。加えるなら、補聴器では聞き取れないから体質的に合わない、ということだ。ああいうスタイルは、まるで「見て見て」と宣伝しているような気がして、どうも好きじゃない。

シーガーさんの死去を伝える、ある全国新聞の第2社会面に出た、コメントにこうあったね。音楽評論家の萩原健太さんのコメントだ。

「歌のメッセージを主役に押し出すシンプルなサウンドで、虐げられた民衆の声を代弁。権威に立ち向かい続けた」

さらには2月4日のある新聞朝刊にもこんな記事もあった。
ピート・シーガーさんを悼む、なぎら健壱さんの文章だ。

「淡々と語るように歌われる社会抗議歌は(中略)怒鳴るように歌うことより、一層インパクトをもって我々の心に響いてきたのである」

もしも仮に手話ソングや手話朗読だけではなくて、キリスト者として音楽と手話を組み合わせたパフォーミングアーツをやるなら、大仰な、手を上げたり大声で歌ったり主よ主よと叫んだりするのではなくて、「歌のメッセージを主役に」「シンプルなサウンドで」ギターと手話で歌い表してみたい。