表情やからだの動きで演じ表すこと2014/02/01 23:08:51

今日から2月。まったく月日のたつのは早いもの。東京タワーで年越しを義妹の息子らと迎えたのがついひと月前とは思えない。

「朗読のレッスン」から新宿で妻と待ち合わせて買い物、手話サークルへ向かい、急な予定で妻だけ先に帰ることになってしまったけれど、妻も手話サークルになじんだようで、次回のサークルでは3分スピーチを担当するという。

サークルでは夫婦間のコミュニケーションを、コント風につくったものを教わった。
笑いが絶えないひとときで、楽しかった。サークル員の中にはパートナーに先立たれた方もいれば夫婦ともにご健在の方もいらっしゃる。しかし大切なのは手話を学ぶことだから、思い切って笑いをとるくらいがいい。

朗読、手話サークルとわたしがこころがけているのは、表情やからだの動きで演じ表すこと。
朗読ではゆっくり込めた感情や引いた感情、トーンを上げたり下げたり、からだの向きを変えたり遠くを見る表情、近くのものを取り出して見せるような動きを入れたり、と、工夫している。仮にラジオドラマだとしても、いや顔が見えないラジオドラマだからこそ、聴取者に伝わるように工夫をしなくてはならない。

明日は浦安教会での特別伝道礼拝である。

特別伝道礼拝と講演会2014/02/02 22:40:06

今日浦安教会でひらかれた、特別伝道礼拝と講演会。
礼 拝:説教「心の和きものその人は地を嗣がむ」
講演会:「新島八重ものがたり-わたしらしく生きる―」
山下 智子先生(新島短期大学准教授)をお迎えしてひらかれたひとときは、講演会に聴講者が多かったようで、ひさびさにいすが足りないのではないかと思われたほど、盛況だった。

新島八重というと、やっぱり戊辰戦争時代が注目されるだろう。あの大河ドラマで綾瀬はるかさんが演じていたけれど、男女差別があの時代でもとりわけ厳しかった会津藩で、男勝りに髪を切って戦場に飛び込んだのは珍しかっただろう。
けれど、そのあとの、つまり同志社大学をたてた新島襄と出会い、襄が亡くなった後についてはあまり知られていない。篤志看護婦と茶道師範、キリスト教伝道のために余生を送られたことが、大河ドラマでも触れられていない。

山下先生が説教でも講演会でも強調しておられたのは、どんなに差別が強く、バリアが厚かったとしても、自分のため社会のため神様のためにという信仰と思いが強かったからこそ、あのような行動を残してこられたのだろう。

もうひとつ、神さまの友だち、という言葉を行動とともに表していた。
キリスト者だからといって他宗教とかかわらなくていいとかかかわるべきではない、というのはおかしい、と生前の八重は語っていたそうだ。
多様化した価値観がある現代ならともかく、そういった考えは急進的過ぎて受け入れられなかったかもしれない。
けれどわたしは思う。
自分を絶対化し、自分とその価値観だけが通用すると主張しすぎるところに争いや憎しみが生まれる。

神さまがおられるのなら、他宗教にも目をむけておられるはず。いや、おられるのだ。
だから他宗教はもちろん、異なる立場の声や意見にも耳を傾ける謙遜さと相対化を忘れずにいたい。

とても実り豊かな礼拝と特別伝道集会だった。

ASL学習が始まる2014/02/03 23:22:35

けさ(日本時間、現地時間では2日)ニュージャージー州イーストラザフォードのメットライフ・スタジアムで第48回スーパーボウルがひらかれた。
NFCシアトル・シーホークス対AFCデンバー・ブロンコスの対戦は、なんと43-8でシアトルが球団創設初のスーパーボウル優勝。こんなにも点差がついたのは久しぶりだ。

スーパーボウルについてはあとでじっくり試合を録画したテレビを見ながら、おいおい書いていくことにする。

仕事を終えてから、かねてからご指導をお願いしていたアメリカ手話レッスンの初日。
妻と一緒に新宿へ行き、新宿駅近くのレストランでじっくり学んだ。テキストは『しっかり学べるアメリカ手話』(土谷道子著 福村出版)。

各章の初めのページに英文がある。これをまず、日本語対応手話と同じように、文法と単語どおりに学んでみる。そして次のページでASLの表現が出てくる。日本手話を学ぶのと同じように、文法を入れ替えたり表情を内容に合わせて取り入れたりする。
妻は慣れないなりに一生懸命手話を学んでいる。帰りの地下鉄車内で、簡単な復習をやってみた。

教えてくださる方がクリスチャンでアメリカ出身、高校時代にフットボール選手経験があることから、けさのスーパーボウルなど豊かな話題の話が出た。
ギターを学んでいる、と話したら、イースターかクリスマスに故ピート・シーガーの「一人の手」をASLとギター伴奏でやろうか、という話も出た。

とにかく、しっかり学びを続けていきたい。

寒い日にはラーメンだ2014/02/04 23:33:03

立春と名ばかり、今日は都内でも降雪があるなど、全国的に寒い天気だった。

そんな一日、帰宅して妻から買い物を頼まれ、さきに食べていてと、みそラーメンをつくり、就寝前に昨日のASLの復習を一緒にとりくんで終えた。
家のなかとはいえ、ラーメンもいいね。

明日は日本手話の学習。

初めてぶつかる壁を越えたら2014/02/05 23:14:07

妻と一緒に喫茶店で手話を学ぶ。
健聴者、聴こえる人が手話を学ぶときにたぶんぶつかる最初の壁は、表情をつけるということだろう。
手話は手で表す。健聴者が手話を使うとき、手で表すことだけに意識を集中させる。中途難聴者として学び始めたわたしもはじめはそうだった。
次第に手を使って表すようになったのはいいけれど、ろう者とやりとりをかわしていき、日本手話を学び始めると、手だけが手話表現ではないということに気づかされた。
つまり、顔で表すのも手話だ、ということだ。

どういうことだろうか。
疑問や尋ねるときは尋ねる気持ち、疑問を問う気持ちを顔の表情で表す。
うれしいときはうれしい、という気持ちを出す。
聴こえないもどかしさ通じないいらだちは聴こえない人に共通の思いだ。そのもどかしさいらだちがあるからこそ、伝えよう伝わってほしいという思いを込めて、顔の表情も込める。

妻はよく「オーバーアクション、演技過剰」とわたしについて言う。
日常会話はそこまでやる必要はないけれど、舞台ではオーバーなくらいがいいのだ。
ついついわたしはふだんでもオーバーにやってしまう。

聴こえる人が手話を学ぶのはたしかにたいへんかもしれない。
初めてぶつかる壁、「表情をつける」を乗り越えたら、ぐっと聴者とろう者難聴者の距離が近くなる。

ギターレッスン 初日2014/02/06 23:22:07

今日から、週1日でギターレッスンを受けることになった。
夏の納涼会で演奏したい曲。

 「バラが咲いた」(マイク真木)
 「ひとりの手」(ピート・シーガー/本田路津子)
 「思えば遠くへ来たもんだ」(海援隊)

はじめにギターのチューニングから教えていただき、次にわたしのリクエストとして上の3曲を教わりたいと伝えて、まず「バラが咲いた」から教わることにした。
3曲の手話表現と並行して進めていくが、できればギター演奏を完全に覚えて、手話表現や演奏を曲ごとに妻とわたしで交互にやるか、分担するかをあらためて相談していきたい。

で、この「バラが咲いた」。古い歌だし、わたしたちの手話サークルでも知らない方はいないのではないだろうか。
メロディーラインはそう難しくない。はじめと終わりは同じメロディー。あいだの「バラよバラよ こころのバラ」で始まる部分はコード進行が速いところもあって、初心者である妻には難しいかもしれないけれど、講師から「まずストロークで小節ごとに弾いていってコード進行を覚えたらいい」ということだった。

身内をほめるのもなんだけれど、補聴器を通して聴いていて、妻の歌声はとてもやわらかく、透き通った実にいい声だなあと感じた。昨年朗読仲間を自宅にお招きしたときに、妻は彼から「朗読をやったらいいのに」といわれたほど。それほどに聴いていて「いいなぁ」と感じた。
残念だけど歌うことについてはわたしは完全に自信がない。でも手話で歌うならなんとかなる。
そのかわりにというか、妻には手話と歌、ギターで歌ったり演奏したりしたら、とてもすばらしいのではないかな。

とても勇気希望をかきたてられる2014/02/07 22:48:51

まれにみる大差がついた第48回スーパーボウルからまもなく一週間になる。
フットボールファンとしては5月のドラフト会議、6月に正式に発表されるシーズンスケジュールまで(実際はそのあいだも選手の契約更改や解雇やいろいろ動きがあるのだけど)しばらく空気の抜けた風船のような感じだ。

逆境克服しスーパーボウル出場 障害、負傷、コーチとの出会い
http://www.47news.jp/sports/turnover/column/ikezawa/140552.html
耳が聞こえなくてもファンの声は聞こえる!【前編】 [近藤 祐司]
http://nfljapan.com/column/54125.html
耳が聞こえなくてもファンの声は聞こえる!【後編】 [近藤 祐司]
http://nfljapan.com/column/54126.html

ところで初優勝したシアトル・シーホークスに聴覚障がいがある選手がひとりいる。
控えだがFBのデリック・コールマン。3歳のときに聴力を失ったという。わたしは5歳だったから、ほぼ同じようなものだ。記事にあるようにプレー中は補聴器をつけている。それでも完全に聴こえるわけではなく、FBというポジション上、オフェンスのプレーコールが伝わることが大事だ。例を挙げると、FBはただボールを持って走ればいいわけではなく、プレーブックと呼ばれる戦術集に沿って、どう動くか、走るルートが決められ、あるいは相手守備選手をブロックすることもある。それらを暗号なりチームで決めた呼び名でQBからオフェンスの10人に伝えられる。それをきちんと理解できなければ、自分以外の10人はどう動いていいのかわからない。あるべきルートに従って走らなかったり、勝手なコースをたどって味方選手とぶつかったりしたらそれこそ敵守備選手につかまるどころかボールを奪われかねない。
だからハドルという作戦会議がとかれて各自が決められた位置にセットして、QBから出される指示をしっかりつかむ必要がある。
そのためにわざわざQBラッセル・ウィルソンはマウスガードを外してまでコールマンに指示を口で伝えようとしているほどだ。

長くなってしまったが、わたしと同じ障がい者がどんな世界であれ活躍しているのを見聞きすると、とても勇気希望をかきたてられる。

貴重な休みをもたらしてくれた2014/02/08 23:20:28

積雪  45年ぶりの25㎝
週末。
ところがけさからとんでもない降雪で、今日は予定していた外出も控えて一歩も外に出ず、終日家で過ごしていた。
それでも何もしないわけにはいかないので、妻とギターの練習をしたり家事手伝いをしたり。

明日は礼拝。午後からコンサートを聴きに行く予定があるのだが、さてどうなるやら。

45年ぶりの25㎝にもなる積雪は、一歩も外に出られなかったけれど、ふたりでゆっくり過ごすことができる貴重な休みをもたらしてくれた。

松本記念音楽迎賓館2014/02/09 23:25:33

昨日から降り続いた、45年ぶりの25㎝にもなる積雪はけさになってやみ、朝起きると晴れ間さえ見えた。
ところが肝心の交通機関がストップしたまま。
都知事選挙の投票を終えて教会へ行こうと、駅へ着いたはいいが、なんと朝の5時から運行休止で、9時になっても駅のシャッターがあかない。

しかたなく自宅で時間をつぶして、午後から二子玉川の松本記念音楽迎賓館で、大島花子さんと笹子重治さんのコンサートを、妻と一緒に聴きに行ってきた。

大島さんのコンサートは3回目。妻は初めてだ。
この松本記念音楽迎賓館は、財団法人音楽鑑賞教育振興会の創設者である、松本望夫妻の居宅であり、没後その「多くの方にご利用いただける施設に」の遺志に従い、(中略)ご遺族から財団が寄贈を受けたもの、とパンフレットにある。

松本望さんはパイオニア株式会社の前身、福音商会電機製作所を創業された方で、クリスチャンであった。
内部は木材でつくられたホール、壁面にはステンドグラスがあるなど、とてもおちついたところである。

で、コンサート。
やっぱり補聴器だけでは聞き取りにくいのだけど、大島さんが歌う曲に手話をつけてくださるなどして、楽しめたのはもちろんのことだ。
アンコールで「見上げてごらん夜の星を」がかかって、わたしだけが手を動かしたけれど楽しめた。
大島さんのリードによる手話に、お客さんも一緒に手を合わせてくださったのはとてもうれしかった。

明日からまた仕事に戻るが、いい意味でリフレッシュになった夜だ。

ほんとうに重く苦しい2014/02/10 23:35:54

書こうか書くまいか、ここ数日大雪をはさんで苦悩し続けたのだが、思い切って書くことにする。
先週に発覚した「現代のベートーベン」が実はゴーストライターによるものだった、という事件だ。

たしかに今回の事件は、作曲者だと自称した彼とゴーストライターと告白した音楽大学教員にまず非難がされるべきだと思う。
しかし、それでことが解決したとか、すべて済んだというにはほど遠い。
わたしは今回の事件で深く傷ついた。彼が聴覚障がいを自称したことも、音楽を通して障がいゆえにすばらしいと称賛されたことも、そして社会の側にそういった「美談」を求めるがゆえに起きたことだ、と。それらのゆえにわたしは、聴覚障がいを自称した彼やゴーストライターを批判したり責めたり排除したりしてことが済むとは思えないし思ってもいない。

すでに社会の中では忘れられたできごとになっているけれど、数年前、北海道の夕張市で医師が聴覚に障がいがないのに、聴覚に障がいがあるように診断書を出して不正に障害者手帳を取得させた事件があった。
この事件もわたしのこころを深く傷つけたのだけれど、障がいをあたかも偽ったり利用したりする悪質さと、社会の側に障がい者を理解する、受け入れる状況がきわめて少ないことと表裏一体、どこかでつながっているのではないか、と。

幸い、妻はわたしの聞こえがろうに近いことを知っているし、難聴者やろう者、手話通訳士先生を除く、健聴者でもわたしの聞こえがどういうレベルかを知っているので、これらの事件でわたしの障がいを疑ったり不審に思ったりされたことはない。実際、おととい妻と手話の復習をしたときも、妻が発した質問を何度も聞き返したのをわかっているし、自宅にいるときは補聴器を外して耳を休ませたら、とわたしの耳を気遣ってくれる。

いまソチ五輪の真っ最中だが、終われば次はパラリンピックだ。だがどれだけ身体障がい者のスポーツ活動に理解があるだろう。パラリンピックではなくデフリンピックと呼ばれる、聴覚障がい者の五輪大会があるのを知っている人がどれだけいるだろう?
その一方でテレビドラマや映画では、障がい者ががんばっただのすばらしい活動をしただのといった話が取り上げられる。
先日のスーパーボウルに出場したシアトル・シーホークスのデリック・コールマンの話もそうだ。たしかに彼らの努力や活動はわたしも勇気と希望を抱く。
けれどそれは彼らにとってもわたしにとっても、美談にしてほしいからではなく、普通にありのままに生きてきた上でのことだ。
それを美談にするのは、障がいのない人たちや社会の側の、勝手な願望や押しつけではないのか?

「現代のベートーベン」事件はほんとうに重く苦しい。
だが彼らを責めたり批判したりするだけに終わらせるのなら、彼らに非を押しつけただけに過ぎない。
根っこにある、社会の側の障がい者観、障がい観、ひいては障がいのない人たちの意識や障がい者とどうかかわっていきたいのかという問題や行動が変わること。
それなくしては、この重苦しい事件から得るべきものはなにひとつない。