「ありがとう」2008/07/10 23:34:04

手話を学んで最初に覚えた単語が「ありがとう」。
由来語源はいろいろな説があるのだけれど、相撲で取組を終えて勝った力士が手刀を切る。あのしぐさがそうだといわれる。

なにげないことでも「ありがとう」と言われるとやっぱりうれしいと思うしやってよかったと感じるだろう。
それと同じで、手話も言葉である以上、気持ちをこめて、真剣な思いで伝えたいもの。

言葉に言い表せない、深い感謝を2008/07/11 23:00:46

仕事が遅くまでかかり、ようやく自宅に帰ってホッとしている。
梅雨明けはまだらしい。

「ありがとう」という単語を覚えて、手話ソングでやってみたいのが「涙そうそう」。夏川りみさんはじめ、これも多くの人たちによって歌われているすばらしい曲だ。
手話ソングも、解釈や考え方の違いで表現方法が異なるものがあっていい。むしろそうでなければ、豊かな表現にならないと思うからだ。
日本語の歌を外国語で歌うとき、原詞のイメージを尊重しつつ、文化や考え方の違いで変わってもおかしくないのと同じ。

「古いアルバムめくり ありがとうってつぶやいた」

ジ~ンと、そしてしみとおってくる。
人生は出会いと別れの繰り返し。学生時代、社会人、結婚、そして……。

そのひとこまひとこまを共有しつつ、言葉に言い表せない、深い感謝を伝えることができたら。

あなたにとっていまありがとうって言いたい人は誰ですか?

目いっぱい歩いた2008/07/12 22:03:19

今日の歩数計は18000歩を超えた。
卓球の練習の前に用事があり、終えてからその近くにあるという卓球場へ。初めてのところで不慣れだったため、タクシーで移動した。
相手を務めてくださる方がいらっしゃらなかったので、ネットを相手に黙々と、サーブやスマッシュの練習。予定をはるかに超えて3時間くらいやったかな。そのあとで会議のためまた都内へ戻った。
で、ふとカウンターを見ると18542歩。暑さがなかったらまだまだ歩けたかもしれない。

で、足や肩やあちこちが痛い。つぼにはるだけというテープをはっている。やれやれ。でも満足した一日。

梅雨明けはまだか2008/07/13 22:56:34

暑い。30℃を超すところが各地であり、熱中症で倒れたり病院に担ぎ込まれたりした人がたくさん出た。ときは高校野球の地方大会真っ最中。プレーする選手はもちろん、スタンドから応援する観客や高校生らはたいへんだろう。

で、自宅に帰ってから、ブラックコーヒーにアイスクリームをのせてみた。
昔通っていたある喫茶店で、コーヒーカップをお湯につけて温めてからコーヒーを注いでいたのを思い出した。その逆で、マグカップを冷蔵庫にいれて冷やしてから、コーヒーとアイスクリームを注いでみる。
けっこういける。

明日は雨のようだけれど気温は今日と同じくらいだとか。
梅雨明けはまだか。

疲れたけれど2008/07/14 22:55:46

雨が降るかなと思って傘を持っていったけれど、意味がなかったね。
勤務中一歩も外に出ることがなく、仕事。チェックや疑問を出すなど、コミュニケーションがあったと思う。どちらかというといつもはあまり人と会話を交わすことがないので、今日のように会話があると、どんなに疲れたとしても、苦痛には感じないのだ。会話があるのとないのとでは、全然違ってくる。手話がなくてもできなくても、ちょっとしたコミュニケーションのあるなしで随分違うと感じる。

帰りは、地下鉄車内のアナウンスがほとんどわからず、自宅近くの駅で初めて分かったのだけれど、地震警報装置が作動したために、地下鉄が緊急停止して10分ほど停車する目にあった。誤作動ならまだいいけれど、もし通勤中に地震に遭遇したらどうなるかと思うと、気が重い。

明日も暑くなるのだろうか。

からだのサイズを超えた2008/07/15 23:24:24

連日の猛暑の中、今日はカレーツアー第3弾。
人形町にある、インド・パキスタン料理レストラン「シディーク」を訪れてきた。http://www.siddique.co.jp/

いただいたのは2種類のカレーとナン。ナンてたってごらんのとおりの大きなサイズ。ざっとみて40センチくらいの大きさだろうか。目の前に出されたときははたしてこのわたしの小さなからだに収まるのだろうかと、一瞬ためらいを覚えた。ひたすら食べることだけに集中して、どうにかおなかに収めた。やれやれ。
やはりカレーは暑い時にこそ食べるべきであると強く実感した。

夜にはいつものように手話教室へ参加。
今日はろう者の使う手話も学んだ。
例を挙げると、われわれ中途難聴者は「すごい」「すばらしい」を、手のひらを下に、鼻の下からこするようにあらわすが、ろう者はこぶしをつくって同じように動かす。また、片手の人差し指をもう片方の人差し指で鉛筆を削るようにゆっくり大きくこするのは「慣れる」という。

ろう者と難聴者では微妙に、表現が異なることに「なるほど」「へえ~」の連続だった。

教室が終わってから仲間と近くのレストランで遅い食事。ここでも手話、手のひらを動かして豊かな会話ができた。

明日からは朗読の手話訳のご指導をいただくことになっている。
気合いをこめて、2カ月間集中しよう。

ていねいにはっきりと2008/07/16 22:44:58

今日から朗読舞台のもうひとつの目標である、手話表現についてご指導いただくことになった。

いろいろ自分でもこうしたらいい、ああしたらいいと手話表現を考えてはいたけれど、ろう者や難聴者、通訳士の人にも見ていただきたいことを考えると、とても独学ではいけない。いや独学でやろうとすること自体がそもそも無理無茶というものだろう。ひとりよがりであってはいけない。みなさんにみてもらって初めて成り立つのだから。

気をつけなくてはならないことはたくさんあるが、2点にだけ絞ろう。
まず、手の位置。
昔からわたしはからだを動かすくせがある。伝えたいという思いがありすぎてかえって読み取りにくいのだ。
舞台はわたし一人だから動きがあってもオーバーであってもいいが、手の位置を流さないこと。いいかえれば胸の前にしっかり置くようにすれば、いくらからだが流されようが動こうが、手話が読み取れないことはない。
次に、丁寧に表そう。
練習を何度も何度も重ねたいが、台本と手話表現が微妙に違っていたり、伝えたいというあまりに、台本と手話、どちらかに引きずられる恐れがある。それはよくない。
声と手話をていねいに、はっきりゆっくりあらわすように意識しよう。

自分からやりたいと言い出して始めた朗読。昨年に続けて手話と朗読をやりたいと言い出したのだ。
やるのはほかでもなくわたし。しかし、神さまのために。次に見に来てくれる難聴者やろう者の仲間、朗読の仲間のために。最後に自分のために。

I'm Third。ぼくは三番目でいい。

長丁場だからこそしっかりやり続けやり遂げたい。

ゆとりをもって2008/07/17 23:56:31

卓球の練習日。コーチが来てくださり、いつもにもまして熱が入った。

いつも思うのだけれど、やりすぎというか、熱が入るのはいいのだけれど度を超すことがある。それがかえって自分を追い込んだりいらない負担になったりするのだ。

職場の健康診断は問題ないと言われたけれど先々が気になる。というわけでここ数日からダイエットというか食事制限を課すことにした。
と言っても無理は禁物。絶対にやせたいという強い意志のあまりに、食べるものも食べない、無茶をする、というようでは本末転倒だ。
時間がかかるのだということを頭に入れて、じっくり長期戦で取り組むようにしたい。急にやるとどこかでリバウンドがあったり苦痛を感じたりして結局何にもならない。

いい意味でゆったりとかまえていこう。

写真は冷たいパスタ、カルボナーラだ。
たまにはこんなのを食べて、気持ちにゆとりをもたせたい。
繰り返すけれど無理無茶無謀がいちばんよくない。

今日も明日も「ありがとう」2008/07/18 21:38:37

年を重ねたせいだろうか(笑)、このごろ古い歌だとか古いテレビドラマを思い出す。たとえば歌なら寺尾聡さんの「ルビーの指輪」だとかいろんな方がカバーしていらっしゃる、「マリモの歌」だとか。ジェロのCDを買ったのも実は五木ひろしさんが歌った『日本沈没』というドラマの主題歌「夜空」を聞きたかったから。

で、もう一つ思い出す。
1970年代、70~75年に放送されたTBSのドラマ『ありがとう』。あのころはTBSというとドラマ、ニュースの分野ではダントツを走っていた局ではなかったかと思う。

タイトルは「ありがとうの歌」。タイトルだけならベターだなと思うけれど、主題歌の歌詞はいまでも歌える。

 さわやかに 恋をして さわやかに 傷ついて さわやかに 泣こう
 さわやかに 夢をみて さわやかに あきらめて ただひとり 泣こう
 いつも心に 青空を いつも 優しい 微笑を   
 ささやかに みつめあい さわやかに 信じあう
 今日も明日も     ありがとう 

思うけれど、ほんとうに「ありがとう」と言っているだろうか。歌詞を読んでみるとストレートに感情が出てくる。メールもファクスもない時代だから、気持ちを伝えるのは手紙か直接口にするかのどちらかしかない。だからこそ気持ちを素直にはっきり言わないとだめなんだろうね。

子どものころ「おばんです」とあいさつしたものだ。夜にはおなべにおかずを入れて「のこりものですけど」と言いながらおすそわけをしに、隣の家へおじゃました。そうやってコミュニケーションがつくられ人間として大切な何かを学んできた。

いまはメールやファクスがあって通信手段には事欠かないように思われるけれど、どうだろうね。
メールを送って返事がないと極端なまでに不安がったり、掲示板に書き込んで返事の書き込みがないと無視されたと思い込む。
一方通行というか、キャッチボールになっていないんだね。ボールを投げてかえって、の繰り返しではない。いわばメールに振り回されているようなものだ。

これでは「ありがとう」も「おばんです」も生まれないわなあ。

昨日も今日も明日もありがとうと言える日にできるかどうか。
もういちどわが身からふりかえってみたい。

客観的と主観的の両面で2008/07/19 20:18:49

朗読の練習日。暑いねえ。バナナを食べて、終わってから小さいロールパンを口にする。こんな感じがちょうどいい。

今回のテキストは難聴者が書いた文を同じ難聴者であるわたしが声の朗読と手話表現の両方で語る。
今日読んだところは、セリフ会話の部分がでてきたので、ややオーバー気味に演技を入れてみた。ところが講師はだめとはおっしゃらなかったが、よくないという。
問題の個所は、呼んでいるのに無視して、なんだこいつは? という場面。次に呼ばれても聞こえないからわからない! と叫ぶ。最後に「多くの人は補聴器をつければ聞こえる(のではないか)と思う」。
ここで、聞こえる人が「なんだこいつは?」と思うのは、怒りというより疑問であるのだと。聞こえる人はそんなに怒っているわけではないのだ。
最後のセリフも、「のではないか? と思う」くらいの、いくぶん疑問を込めた読み方をすべきだというのである。

なるほど。
なかには頭から湯気が出るほどに怒る人もいるかもしれないが、ごく普通のひとは障碍者に対してそんなにあからさまに感情をぶつけているわけではないのだと。
逆にわたしたちは、理解されない理解してもらえないというジレンマの中にいて、緊張感の中で生きている。ある意味絶えずビクビクしているともいえる。

このギャップジレンマを、どう演じたらいいのか。
講師と話していて、今回のテーマである難聴者が書いた文を当事者でもある同じ難聴者が語るということに気をつけたいというのだ。一歩引いて客観的に読みつつ、当事者としての共感性を込めて語る。
これはすごく難しい。ついつい当事者としての意識が頭によぎるから。