わたしではなくみんなが喜んでもらえるものを2011/03/21 22:40:26

さて、そういったもろもろのことを見聞きしていく中で、わたしのなかにもある「変化」が生まれてきた。

今年9月17日に予定している「コスモス朗読会」で、先月『鬼平犯科帳』から「鈍牛」という作品を読みたいと考えて、手話通訳士や朗読の先生にとりあえずの仮台本を見ていただけないかとお願いしている。『鬼平犯科帳』は時代劇だ。当然現代にはない言葉があり、表現があり、それを手話でどう表すかということにも挑戦しようと、手話通訳士と相談していたところだった。ひとつの参考として能や歌舞伎といったジャンルに挑戦している手話劇団。そういったところも参考にしながら手話表現をつくっていこうと思っていた矢先の、今回の災害。

時代劇の言葉を手話にするという取り組みも、わたしの手話のレベルを上げる、そしてろう者や難聴者、手話のわかる人たちにみて喜んでもらえるものにしたい。それはできないことはないだろう。

『鬼平』はだめなのか? そもそもわたしの思いは何を言おうがどうしようが結局は自己満足なのか。

この難しい課題に挑戦してみよう。それがわたしではなくみんなが喜んでもらえるものとなるように。

デュエットソング2011/01/25 00:27:42

昨日は終日ひどい肩こりと眠気に悩まされた。肩を動かすなどしてどうにかしのいだけれどまあ、なんとひどい肩こりだろう。夜に手話ソングダンスのワークショップへ行く前に、ドラッグストアで知人から教えてもらった湯たんぽを注文した。これはレンジで温めて衣類の上から首に巻くと30分くらい温かいという。商品名は「レンジでゆたぽん首・肩用」という、白元から出ている製品だ。
http://www.hakugen.co.jp/products/howto.php?pid=275

とりあえず使ってみることにする。

ワークショップでは『渋谷で5時』というデュエットソングをやった。これが楽しくて楽しくて笑い転げながらマスターできた。わたしの演技がなんとなくナヨナヨしているらしいが、もっとメリハリをつけて演じてもよかったかも。
来週が最後で2月は一時お休み。けれど次回のワークショップは必ずあるから、そのときを楽しみにしよう。

自宅へ帰る前に米や食材を購入してきた。
今週またカレーをつくろうと思う。鶏肉を使ってみたい。

言葉の持つ力2010/12/26 21:49:24

一昨日も書いた、3カ月前の朗読舞台のDVDについて、制作をお願いしている先生とご相談を重ねてきた。
字幕は問題ない。あとはなぜわたしが朗読舞台をやりたいと思い続けてきたか、その動機についての短い説明文がほしいという。さっそくとりかかることにした。

語り芝居である朗読は、語られるからこそ何かが伝わるのだろう。言い換えるならば、文は読まれるだけならなんにも伝わらない。読まれて何かを感じ、それを声を出して表す。感動であるかもしれないし、読まれた文を語り手が声を出して読むことで表現することでもある。

今日のある新聞の投書に、劇団文学座代表で演出家の戌井市郎さんが亡くなったことに触れて、彼の朗読劇演出に感謝したという内容の投書があった。
投書にはこうある。
『戌井さんは、朗読劇が観客の想像力をかきたて、イメージを大きくふくらませることを指摘。「若い世代の皆さんが、良質の演劇や芸術にできるだけふれ、感受性を高めてほしい(以下、略)」と希望を語られていた』

今日、礼拝後に浅草で、「路地裏」というイベントの忘年会に行ってきた。
忘年会会場の壁に、戦没画学生の遺した絵画の展覧会のチラシがはってあった。

あの時代に生きた人たちは「良質の演劇や芸術にできるだけふれ」ることを許されずに戦場へ駆り出されていった。その無念さを思うと言葉もない。

いまこうして曲がりなりに生きてこられて表現するという喜びを味わえる。
だからこそ一度しかない人生だもの、音声言語であろうが手話であろうが語る言葉のもつ力を信じていたい。

テスト版2010/12/24 22:57:10

今年も残りわずか。
都内で仕事の後に学んでいる日本手話教室はあと2回の予定。

その教室の前に、3カ月前に下北沢であった「コスモス会」朗読発表会で収録したわたしを含む舞台のDVDのテスト版を見せていただく機会があった。

わたしの前に舞台に立った方、わたしの部分、と続けて見たが、字幕が音声と同時に流れるタイミング、字幕、音声、いずれも問題はなく、このままDVDに焼いてくださるようお願いする。
3カ月もかかったのは、台本どおりの字幕文字入力もさることながら、音声と同時に字幕が出るようにぴったりタイミングを合わせる作業がたいへんだったからだ。だが、聞こえない人にも聞こえる人にも楽しんでもらえる舞台がわたしの終生の目標。
今回のDVDで完ぺき、というわけではない。

ともあれDVDができたら、あとは観に来て下さったみなさんに記念品として差し上げるための発送作業が待っている。

テレビドラマ『心の糸』2010/11/12 20:16:28

いままでにも「名もなく貧しく美しく」「星の金貨」などろう者や難聴者、手話を取り上げたドラマが出てきた。
今日ご紹介するのは「コーダ」Children of Deaf Adultの略、「ろうの親の子ども」をテーマにした内容の『心の糸』という番組だ。
耳が聞こえないゆえに子どもに期待をかける母親。その束縛から逃れたい、自分の道を歩きたいと思う息子。その葛藤とぶつかり合い。

お涙頂戴ではなく、聞こえない人たちの姿をありのまま描いた作品だろう。
さっそくわたしはDVDに録画することにしている。

2010年11月27日(土)
午後9:00~10:13 [総合・デジタル総合]

『心の糸』オフィシャルサイト
http://www.nhk.or.jp/nagoya/ito/

わたし自身の中にも栄養を蓄えていないと2010/10/25 23:05:38

けさネットでNFL第7週、アウェーのデンバーに遠征したオークランドレイダーズ戦の試合結果をみる。同じAFC西地区のデンバー・ブロンコスと対戦。今回が両チームの100回目の対戦だ。

試合は予想をいい意味で裏切る内容。第3クオーターに3つもタッチダウンを奪うなどで、わがオークランドは8つのタッチダウン、計59点をあげ14-59で快勝した。これで今シーズンの成績は3勝4敗。勝率5割まであと1つ。来週はホームに戻ってシアトル・シーホークスと戦う。

手話ソングダンスのワークショップ。
『What is Wonderful World』最終日。6人の参加者が2人ずつペアを組んで演技や場面状況設定をつくりながら歌の世界を表現する。わたしは最初に戦場に出ていく兵士をイメージしてみた。まずかったなとあとで大笑いしたのは、上官と一兵卒に分かれて演じた。もちろん一平卒がわたしだ。軍隊経験がないけれど上官を先に行かせてあとからついいていく一兵卒がどこの世界にいるか。上官を守るのが一兵卒のするべきことではないか。

とまあ、そんな演技を入れながらやったのは楽しかった。
ワークショップも来月から12月までのレッスンで年内は終了。

もっといろんな経験を積みながら、演じるということを考えていきたい。そのためにはわたし自身の中にも栄養を蓄えていないとね。

がんばっていれば道は開けるのだ2010/10/04 23:04:28

NFL第4週、わがオークランド・レイダーズはホームで、ヒューストン・テキサンズと対戦。31対24で敗戦。これで3敗目。
レイダーズQB、ブルース・グラドゴウスキーはパッシングヤードで278ヤード、2TDを奪ってまあまあいいところを見せたけれど、インタセプトを2回、ファンブルロスが1回。
なんだかこのままいっても10敗しそうな、いや~な雰囲気。

この辺で気分を変えて。

今日は舞台後2回目の、そして今月最初の手話ソングダンスワークショップ。
わたしのためにしてくださったのかどうかわからないけれど、ワークショップで、歌に気持ちを込めるために、即興の芝居をやることになった。
同じせりふを2回くりかえしてしまい「気持ちが入りすぎ、せりふも1回でいい」といわれたあとで別の設定場面で芝居をやったときに相手役の女性から「気持ちがまっすぐ伝わってくる」と言われた。

いつかきちんと芝居や演技の勉強を受けたいと思う。
そのときもうまくいかなかったり失敗したりするだろう。打ちのめされるような経験もするかもしれない。
けれど、がんばっていれば道は開けるのだと信じている。

覚えやすい歌詞と手話がこころに染みとおる2010/09/14 23:45:18

昨日、手話ソングダンスのワークショップへ行ってきた。
今回はルイ・アームストロングの「このすばらしき世界」が課題だ。

1968年に生まれた曲だが、いまもって色あせていない、どころかますます輝きをみせている。

今回ひととおり手話表現を学んだなかで、もっとも感動したというかなるほどと手を打ったのは

I see them bloom for me and you
の表現だ。

日本語に直すと

君やぼくのために咲いている

これをどう表すか。

日本語対応手話なら「君+僕+ため」とそのまま訳すだろう。日本手話なら「花+なぜなら+君+ぼく」となるだろうか。

直訳したり説明したりするのではなくイメージで表す。

文で表すのは難しいが、あえて書くとこうなる。

「花をくばる」+「花を受け取る」+「(花を)与える」
とでもなろうか。なるほどねえ!

とてもこころに染みとおってくる歌詞と手話表現だ!

伝えようとする心 引き込み、考えさせる力2010/08/31 23:00:09

朝、もやしと豚肉をいためて豆板醤で味付けしたおかずとキュウリの浅漬け、ポテトサラダを弁当にして持っていく。少し余ったため、夜のごはんに残しておいたが、帰りに買い物をしてきた。
スーパーの野菜売り場をのぞく。
気のせいかな。にんじんが細いのだ。アスパラもそう。こんなに細かったかな?

もうひとつこの夏で気づいたことがある。
皿を洗うときに水道から流れる水が、夜に入っても熱く感じるのだ。お湯ではない。水だ。だのに温かい。たぶん昼間の暑さで水道管が熱せられたままなのだろう。まあ夏だからいいけれど、この暑さは来月まで続くかもしれないというから、野菜の出来具合といいさんまの不漁といい、少し不安でもある。

新聞から拾い読みをしてみた。
先週金曜日夕刊の、脚本家の三谷幸喜さんのエッセーと今日の夕刊の論説委員の記事にひかれた。

三谷さんは『ステキな金縛り』という映画作品の打ち上げパーティーで同映画のテーマ曲「ONCE IN A BLUE MOON」を披露するため、スタッフの若い男性、ジャンボ氏をシンガーに抜てきした。だが彼は歌が得意ではない。けれども一生懸命練習をして、三谷さんのこころを揺さぶった。いわく「歌は決してテクニックではないのだ。大事なのは歌を伝えようとする心なのだ。それをジャンボは教えてくれた」。

もうひとつ、論説委員の記事には、東京拘置所にある、死刑執行場を公開したという先週の記事と死刑執行場の写真を前に、一昨年に見たという演劇『どんとゆけ』という作品を紹介していた。
被害者家族が死刑に直接かかわる「執行員制度」で、執行員として夫と子どもを殺された妻と夫の父が加害者の青年と向き合う、というところから始まるのだという。わたしはこの作品を見たことがない。どなたかいらっしゃるだろうか。
筆者はこう書いている。
「見る者を引き込み、当事者のように考えさせるのが演劇の力」

もうすぐ取り組みを再開する、手話つき朗読『ゆずり葉』では、聞こえないわたしは声と手話の両方で演じ語る。そして聞こえない吾朗とろう学校教員で吾朗の恋人であるさやか、聞こえる者と聞こえない者の両方を演じ、聞こえない者と聞こえる者の苦しみを表現しなければならない。

わたしはどちらの立場にも立てる。5歳までは聞こえていたから、ある程度はわかる。普通に発音発声ができるから初めて会った人は100人中100人がわたしを聞こえる者だとばかり思った。しかしわたしは補聴器をはずすとまったく聞こえないろう者でもある。聞こえない者の苦しみ悲しみは痛いほどよくわかる。

どちらにも立てる者として、舞台を観にきてくださる皆さんを引き込み考えさせることができるだろうか。それが、舞台に立つ目標であり成果であるのだ。
けれども押しつけることが引き込み考えさせることではない。あくまでも演じることでしか伝えられないのだから、あとはお客さんにまかせるしかない。

昨日も書いたけれど、笑って楽しむこと。とともに、聞こえない者と聞こえる者の苦しみ悲しみを伝えたいという思い。それがなくては、いくら百万一億の手話や言葉を駆使しても、伝わらないに違いない。

こころの底から笑え!2010/08/30 23:45:15

8月期手話ソングダンスワークショップの最終日。TUBEの『あ~夏休み』を練習したあとで、グループに分かれてのミニ発表会。発表会といっても即席のグループで、レベルはまちまち。けれどわたしのグループももうひとつのグループも、それぞれに個性豊かな表現をして、見ていて笑い転げたものだ。

やってみてあらためて感じるのは、「笑え! こころの底から笑え!」ということだ。

シリアスなプレーでもいいし、コミカルな笑いをとるプレーでもいい。
なんであれプレーヤー、演じる本人がこころの底から笑っているか楽しんでいるかいないかで、観てくださるお客さんに伝わらない。言い換えれば百万一億の言葉を費やすよりも、笑顔で演じているあるいはこころの底から演じることを楽しんでいたほうが、ストレートにお客さんに伝わる。演じるということはいろいろあるだろうけれど、自分以外の誰か何者かになるということであり、お客さんに伝えたいから演じるのだ。その演じるということを楽しむことが、どんなテクニックよりも勝るのではないだろうか。

来月からもまたワークショップがある。
朗読舞台にもいい意味で相乗効果があることだろう。