まわり巡ってわたしたちにかかわってくる2017/10/12 23:13:26

連日のように報道されている、今年6月5日夜におきた、神奈川県大井町の東名高速でワゴン車が大型トラックに追突され、夫婦が死亡し娘2人がけがをした事故。高速道路で追い越し車線に停車させることが危険なことくらいは、わたしでもわかる。

この事故を巡ってはいろんな声がネット内外で伝えられている。あおり運転の危険性はもちろんのこと、なぜ逮捕された理由が自動車運転死傷処罰法違反(過失運転致死傷)などの疑いなのか、もっと重い刑罰を、危険運転致死罪ではないか、という感情論もきこえてくる。

それらは今後裁判ではっきりしてくるだろうが、もっと不安なのは、こういう危険な目にあったとき、いやそれ以前に、こういうマナー違反と出くわした時に、目も合わせずに見過ごすべきだった、という意見があったことだ。

昨年、東京と長野を高速バスで往復したとき、なんどか危険な運転をしている車を見かけたことがある。
たしかにあおり運転くらいでは警察は動いてくれないという、実際に経験した人たちの声もあるし、いちいちそんなことでは動かないのも事実だろう。

けれど、「見過ごすべきだった」というのもまた乱暴な意見ではないだろうか。
この事故はほんとうにいたましい。父母を失った被害者やご遺族の怒りはもちろんだ。
しかしおかしいこと理不尽なことが目の前に起きているのに、「見過ごせ」はないだろう。こういう意見がまかり通るようになると、どんな理不尽な暴力や乱暴行為が起きても誰も助けようとしない助けない、それどころか自分には関係ない、巻き込まれたくない、という心理が広がって結局、わたしたちの生活そのものが安全なものにならないのではないか。そしてそれは結局まわり巡ってわたしたちにかかわってくるのだ。

家族がいるわたしも、けっして他人事ではない。
だからこそ家族を守らなくてはならない立場にあるとともに、社会のおかしな状況に対して目をつむっていいのか。人として無関係ですませていいのか。

アンネ・フランクをかくまった人たちはどうだったろう。
ユダヤ難民にビザを発給した杉原千畝さんはどうだっただろう。

この世界がどんなに暗く生きるにも困難であったとしても、そういう、人としての何かを失うような生き方だけはしたくない。