慎み深さも思慮も信念もない、ということではないか。2017/03/03 22:39:51

「任せていた」「記憶にない」 石原氏、会見で連発
http://digital.asahi.com/articles/ASK335GM3K33UTIL03F.html?_requesturl=articles%2FASK335GM3K33UTIL03F.html&rm=1082

教育勅語と現代語訳
http://chusan.info/kobore8/4132chokugo.htm

夫人を「私人」というのはたやすい。
しかし幼稚園での講演会に政府職員が同行しているなどというのは、「首相夫人の連絡調整などのサポートを行うため」(菅義偉官房長官)といっても限りなくグレーゾーンであり、ブラックに近い。つまりどんなに主張しても立場上、公人に近いと見るのが一般的だし、普通の人の感覚ではそうなるだろう。うやむやな解決幕引きでは納得できない。

もうひとつ、幼稚園で園児に教育勅語を暗唱させるなどという教育をする人が、いざ問題が出てきてから公の場に出てこない、というのはどういうものだろう。テレビカメラの前には立っているけど、国会でこれだけ問題議論になっているのだから、公の場で言うべきだろう。
わたしは教育勅語など覚えるつもりも意思もさらさらないが、ためしに教育勅語をひっぱりだしてみた。内容の是非や議論はわきにおいて、興味深いのはこのくだりだ。

「朋友相シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ(中略)智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ」(原文)
「友だちとは互いに信じあい、行動は慎み深く、他人に博愛の手を差し伸べ(中略)知能をさらに開き起こし、徳と才能を磨き上げ(中略)正義心から勇気を持って公のために奉仕し」(現代日本語訳)

自分の信条信念がたとえ世の中に広く認められないとしても、その人の中に確固たるものがあり「正しい」という揺るがない確信があるならば、たとえ自分と相いれない立場の人にも進んで自分の考えを述べることが出来るはず。
トランプは自分の考えとは相いれないものを選別して自分と合うものだけに考えを発信しているが、彼とは異なり、相手を選別する代わりに公の場で自分の考えを言わない、というのもどうだろう。慎み深さも思慮も信念もない、ということではないか。

はじめに書いた石原元都知事もそう。
「何のために知事がいるのか」と問われると、「知らないものは知らないし、任せるしかない」と突き放しただけではなく、「私、専門家ではありませんから」と言い、都庁内や専門家の判断に「一任していた」と述べたというのは、無責任を通り越してあきれる。
結局、この人は人のせいにするのはうまいけれど自分で責任を負うのはいやなのかとりたくないのか。

公の立場に立つ、あるいはかつて立っていた人が、こういう無責任とも思える言動をするのは、人としての品性にもかかわる。
妻と話していて「ああ、やっぱりね。こういう人だったんだね」と、ふたりとも納得したのはいうまでもない。