暑さの後の夜。2015/12/11 23:46:18

仕事中、会社の中にいて一歩も外に出なかったのだけど妻から「暑かった」という話を聞いて、ホントに12月? と感じたものだ。

日中の暑さの後の夜。
都内であった、聴覚障がい者団体のクリスマスパーティーに参加してきた。
初めてお会いする方ばかりだったけど、手話で話ができるから雰囲気にはすんなり溶け込めた。

この週末もいろいろ予定があって、あすもクリスマス関連のイベントがある。
楽しい半面、何かと気ぜわしいのだが、ま。楽しもう。

震災復興のオリーブ麺2015/12/12 22:11:03

休日。
早稲田にある日本キリスト教会館でクリスマスの礼拝とパーティーに出席、その後妻のダンス仲間で友人と一緒にお茶を楽しんできた。

夜はその日本キリスト教会館からすぐ近くにある、日本基督教団早稲田教会内にある、特定非営利活動法人シャプラニールがクリスマスで開いていたバザーをのぞいてきた。
アジアの女性たちが作ったストールだとかいろいろあったなか、震災復興の目的で福島のオリーブ麺が販売されていたのを見つけて妻と一緒に今晩のメニューにした。

味はつるつるした舌ざわりだけれどオリーブが入っているとは思えない、のど越しがとてもよいもの。
妻は焼きそば風に仕立ててくれたけど、温冷どちらかの麺にしてもおいしいのではないだろうか。
ともあれ、とても気に入って、機会があったらまた食べてみたいものだ。

手話の学びができたことに感謝。2015/12/13 22:30:32

礼拝後、妻とわたしの共通の大切な友人と一緒にもつクリスマス兼忘年会のため新宿御苑へ向かう途中、大手町のOOTEMORIという一角に巨大なクリスマスツリーがあった。聞くと、ハロウィーンが終わってすぐに設置されたものだそうだ。

クリスマス兼忘年会は、新宿御苑近くのインドカレー店でカレーを食しながらいろいろ話が弾んだ。
終わってから、「虹の手」でレッスンしたい新曲の手話表現動画が送られてきて、わたしと妻と友人の3人で見て、なるほどと思ったりへえと思ったり。

今年もいろいろ手話の学びができたことに感謝。
まだまだ学びたいことがたくさんある。

人生は移り変わっていく。2015/12/14 23:07:45

私ごとですが、先日、おじが亡くなりました。老衰で苦しまずに眠るように亡くなったときいています。

子どものころや学生時代、社会人になって実家がある札幌に帰った時などに会っては励ましをいただいたり言葉をかけてもらったりしたことが、まるで昨日のことのように思い出されてなりません。

もうこの地上では会えませんが、いろいろ思い出をくださったことに、こころからの感謝を伝えたいと思います。

50にもなるとそういうことと向き合わなくてはならないのです。いずれわたしや妻、ハンナの両親もおくるときがかならず来る。わたし自身もからだの老いや病気などと直面するだろう。

そうやって人生は移り変わっていく。いまは一年に例えるなら夏から秋へというところだろう。

わたしはとても「安」という気にはなれないが2015/12/15 22:50:58

今年を表す漢字として日本漢字能力検定協会が発表したのは「安」だそうだ。安保法案もあるし、テロや異常気象もあるし。人々のこころは不安にかられたことばかり。逆に安心を求めたいという心理だろうか。

けれども2016年をみても、どうも安心できそうにないことばかり。
ISは日本を狙ったテロを起こすと言っているし、自然災害もいずれまた起こるだろう。

昨日、暦にたとえるとわたしは秋から冬に向かっている、と書いた。
しかし秋も冬も、けっして悪くはない季節だ。むしろその季節の瞬間瞬間をより良く生きていくことが、人生をさらに彩り豊かなものにしていくのだろう。

不安の中でも、しっかり足を地につけて歩いていくこと。

ますます遠ざかる?2015/12/16 23:14:59

このあいだ地球から遠ざかって行った小惑星探査機「はやぶさ2」が地球の引力を利用して軌道を変えた「スイングバイ」のことではない。

たまに外食するが、イートイン、持ち帰りかで8%と10%に分かれるという、軽減税率。

めんどくさいものだと思う。

ますます外食から遠ざかるような気もするが。
消費を冷え込ませるのかもしれない。

#GoogleDoodleと、ベートーベン2015/12/17 21:40:25

今日の #GoogleDoodle で、ベートーヴェンと、あの未完の名作をアレンジしよう
https://g.co/doodle/2wuucg

よくみるとベートーベンの隣に、黄色いトランペットのようなものが置いてある。なんだろう。
これはベートーベン存命当時、彼が使っていた補聴器なのだ。

わたしにとって、唯一無二の作曲家といったら、やっぱりベートーベン。

クリスマスが過ぎたらどこかでじっくり第九CDを妻と一緒に聴きたいと思う。

人がお互いを理解し合うというのは、本当に難しい。お互いを理解し合えないことほど、不幸なことはない。2015/12/18 23:56:36

先日手話サークルの今年最後の学習会で、今村彩子という、ろう者で映画監督の作品『珈琲とエンピツ』を観た。DVDにもなっているのでご覧になった方もいらっしゃるだろうと思う。

人がお互いを理解し合うというのは、本当に難しい。
聞こえないろう者中途難聴者と聴者も、コミュニケーション方法が違う、生活文化が、考え方が違う。そのために誤解やすれ違いからトラブルになり、人間関係にひびが入ることもある。そうなっていってお互いを理解し合えないまま、ということになる。

この『珈琲とエンピツ』では静岡県湖西市ででハワイアンショップとサーフ用品ショップを営んでいる、ろう者が出てくる。来店する客の中には聴者もいる。だが垣根をつくることなく、店主である彼がつくったコーヒーを出し、筆談と身振り手振りでやりとりをする。彼の師匠であるベテランサーフボード職人とは声を出してやりとりをする。

けれど彼らの間には垣根がない。
お互いを理解し合おうという意志ができている。そして、聞こえないから聞こえるから分かり合えない、ではなく、お互いを理解していこう知っていこうという交流ができている。

たしかに見た目ではわかりにくから、避けることもある。
それではいつまでたっても交流ができない。
わからないから知らない、ではなくて、ちょっとでいいから教えてとか知ってほしいとか、ふつうに接していくことで、垣根が低くなっていくのではないだろうか。
LGBTやほかの障がい者もそう。

お互いを理解し合えないことほど、不幸なことはない。

演じがいがあった2015/12/19 22:13:40

昨日は、仕事を早く切り上げて先週日曜日に亡くなった叔父の通夜に行ってきた。
親せきとは言いながら40年ぶりに再会する機会があり、昔話に花が咲いた。
今日。告別式に行きたかったのだけれど、午後からの「朗読のレッスン」2015年最終日と重なり、泣く泣く告別式を欠席せざるを得なかった。

ミニ発表会で諸田玲子著、『日月めぐる』所収の一篇「川底の石」を群読で読む。聴こえないわたしには群読というスタイルはやりにくい。自分の出番はわかるのだけれど、他の人の出番が聞こえないからだ。

わたしが担当したのは、主人公・およう……ではなく、おようが16のときに出会い、一度限りのからだの関係をゆるした、紙の仲買人を名乗る、正太郎という人物。出会ったときは「快活で、颯爽としていて、銭払いがよかった。野心を抱き、きりりとした目で空を見上げる若者」だった。だが10年の歳月のあいだに、男はすっかり変わり、なにやら悪事をやらかして捕吏に追われているらしい……。

わたしはめったに、まず家庭のなかでも職場でも教会でも使わないし出さない、低く抑えたトーンで語った。悪事をやらかしてさらになにかやらかそうとする悪人を、思いっきり演じた。
そのかいあったのか、発表会後の講評で先生から「いつもと違った、抑えた読み方でとてもよかった」とおほめをいただいた。
やってみて感じたのは、ヒーローだとか正義の主人公だとかもいいけれど悪役もおもしろいなあと。まず実生活では経験できないことだし、演劇とは実際の自分とは異なる別人格を演じることだが、それ以上に、だからこそ、演じがいがあるのではないかと思うのだ。朗読は声で勝負する。なおさら表現力が求められ試される。
『鬼平犯科帳』でもそうだが、どんな善人でも悪の部分があり、逆もまたしかりなのだ。根っからのワルなんていやしない。どこかで足や道をまちがえた。だからそこには人間くささもあるはずだ。それを表現するのが楽しい。

ミニ発表会では、毛糸のベストの下に、喪服のベストを着て、叔父をしのんだ。どこかで叔父が笑って見ているような、そんな気がした。そういえば、よくわたしに言ってくれたっけ。「スマイルは、話すこと喋ることが大好きだもんな、得意だもんな」と。生きているあいだに、一度でいいからわたしの朗読をみていただきたかったな。

やってみて、朗読の魅力とともに演じる表現することの楽しさと難しさをあらためて実感させられている。楽しさと難しさゆえにやりがいも。
本気で、演じる表現することに挑戦したい。
わたしには声と手話とからだがある。この3つを生かして、表現演じてみたい。

2016年からのわたしの目標だ。

人間の尊厳を、自分の人間性を守る2015/12/20 21:43:44

今年もいろいろ映画を妻と一緒に観ることができた。
まだひとつ残っているけれど、今日、『杉原千畝』を観てきた。

ご存じない方もいらっしゃると思う。
第2次世界大戦中、ナチスドイツの迫害から逃れるために、在リトアニア日本総領事館に多くのユダヤ人難民がやってきた。リトアニア総領事だった杉原千畝は、本国の意に反する行為とわかっていたが、苦難の中にある難民を見捨てることができず、計2000人以上のポーランド系ユダヤ人難民にビザを発給した。一方で杉原は、戦時下にあるソ連(現ロシア)やドイツの情報を入手し、本国に戦争を思いとどまらせるよう、働きかけてもいた……。

いつの世にもある、個人と組織の相克。組織の中にあって個人を主張するのはたやすいことではない。映画の中で、ナチスドイツ兵が多くのユダヤ人を射殺する場面がある。「立て」と「伏せ」を交互にユダヤ人に命じて立ち上がったユダヤ人を見境なく乱射して射殺を命じる上官。何回目かの命令のときに、ある兵士がためらい射撃できない。上官はその兵士に「臆病」となじる。

杉原さんもおそらく、ためらっただろうし迷っただろう。だが目の前にいる難民を見捨てるわけにはいかなかったのだろう。個人と組織、国家の相克の場面に立たされたとき、はたして国家に従うべきか、それとも人間の尊厳を、自分の人間性を守るべきか。

難民の問題は、70年がたった今も変わらない。
シリア、イラクの人たちがヨーロッパに逃げてきた。だがあのフランスで起きたテロのために、これ以上難民を受け入れるなという声が欧州各国であがり、アメリカ大統領選共和党候補のドナルド・トランプ氏が「イスラム教徒の入国禁止」と発言するまでになっている。

そしてイスラエル。
あれだけ苦難を味わったはずの国が、なぜ戦いをやめないのか。それはそのまま中東の各国にも言える。

映画の中でこんなせりふがでてくる。
肌の色も目の色も違うけれど、こころは同じはず。
なのになぜ、争いはやまないのだろう。

わたしはできる限り、人間らしくありたい。他者への思いやりと優しさを失った、後世の人間に恥ずかしいと思われる人間になりたくないし、そういう生涯をおくりたくない。少しでも、よかったと言える、誇りに思える人生でありたい。