演じがいがあった2015/12/19 22:13:40

昨日は、仕事を早く切り上げて先週日曜日に亡くなった叔父の通夜に行ってきた。
親せきとは言いながら40年ぶりに再会する機会があり、昔話に花が咲いた。
今日。告別式に行きたかったのだけれど、午後からの「朗読のレッスン」2015年最終日と重なり、泣く泣く告別式を欠席せざるを得なかった。

ミニ発表会で諸田玲子著、『日月めぐる』所収の一篇「川底の石」を群読で読む。聴こえないわたしには群読というスタイルはやりにくい。自分の出番はわかるのだけれど、他の人の出番が聞こえないからだ。

わたしが担当したのは、主人公・およう……ではなく、おようが16のときに出会い、一度限りのからだの関係をゆるした、紙の仲買人を名乗る、正太郎という人物。出会ったときは「快活で、颯爽としていて、銭払いがよかった。野心を抱き、きりりとした目で空を見上げる若者」だった。だが10年の歳月のあいだに、男はすっかり変わり、なにやら悪事をやらかして捕吏に追われているらしい……。

わたしはめったに、まず家庭のなかでも職場でも教会でも使わないし出さない、低く抑えたトーンで語った。悪事をやらかしてさらになにかやらかそうとする悪人を、思いっきり演じた。
そのかいあったのか、発表会後の講評で先生から「いつもと違った、抑えた読み方でとてもよかった」とおほめをいただいた。
やってみて感じたのは、ヒーローだとか正義の主人公だとかもいいけれど悪役もおもしろいなあと。まず実生活では経験できないことだし、演劇とは実際の自分とは異なる別人格を演じることだが、それ以上に、だからこそ、演じがいがあるのではないかと思うのだ。朗読は声で勝負する。なおさら表現力が求められ試される。
『鬼平犯科帳』でもそうだが、どんな善人でも悪の部分があり、逆もまたしかりなのだ。根っからのワルなんていやしない。どこかで足や道をまちがえた。だからそこには人間くささもあるはずだ。それを表現するのが楽しい。

ミニ発表会では、毛糸のベストの下に、喪服のベストを着て、叔父をしのんだ。どこかで叔父が笑って見ているような、そんな気がした。そういえば、よくわたしに言ってくれたっけ。「スマイルは、話すこと喋ることが大好きだもんな、得意だもんな」と。生きているあいだに、一度でいいからわたしの朗読をみていただきたかったな。

やってみて、朗読の魅力とともに演じる表現することの楽しさと難しさをあらためて実感させられている。楽しさと難しさゆえにやりがいも。
本気で、演じる表現することに挑戦したい。
わたしには声と手話とからだがある。この3つを生かして、表現演じてみたい。

2016年からのわたしの目標だ。