それでも人生にイエスと言えるものでありたい。2015/08/18 22:58:34

『心の瞳』。
何度も何度もコードをみて指の押さえ方も繰り返しやって、妻から「きれいな音になった」と言われるまでになった。自宅で、コード譜ではなく楽譜をみて、イントロから歌部分、間奏途中までをひととおり弾けるようになった。わたしはついつい速いテンポで弾いてしまうのだが、もうあと何回か練習すれば、イントロから最後までひと通りを、楽譜を見て弾けるだろう。
何事も、継続と、絶対にやり通すのだという強い気持ち信念が必要だとあらためて気づいた。何事も、とはいっても、やはりそれは自分だけの思い入れやひとりよがりであってはならないは言うまでもないのだけど。

おとといの礼拝説教。
コリントの信徒への第2の手紙1:15~22がテキストだった。
その一部を、いつものように、文語体で引用してみる。

神は眞實にて在せば、我らが汝らに対する言葉も、然りまた否と言ふが如きにあらず。我ら即ちパウロ、シルワノ、テモテが汝らの中に傳えたる神の子キリスト・イエスは、然りまた否と言ふが如き者にあらず。然りと言ふことは彼によりて成りたるなり。神の約束は多くありとも、然りと言ふことは彼によりて成りたれば、彼によりてアァメンあり。我ら神に榮光を帰するに至る。

アーメンという言葉、ほんとうに日本語に定着したかのようであり、わたしたちも実際、教会でも家庭でも祈るときにはこう言って終える。それは「そのとおりになりますように」という意味のヘブライ語の言葉である。
知らなかったのだが、各国語に直されているのだそうだ。
ウィキペディアによれば、

アーメン(ヘブライ語: אָמֵן‎(ティベリア式発音: āmēn アーメーン、現代音: amen アメン); アラビア語: آمين‎(āmīn アーミーン); ギリシア語: ἀμήν (古典音: amḗn アメーン、コイネーおよび現代ギリシア語: amín アミン); ラテン語: āmēn アーメーン; ロシア語: Аминь アミン)はヘブライ語で、「本当に」「まことにそうです」「然り」「そうありますように」の意。アブラハムの宗教で使われる用語である。

けれども、これは自分の願望や思いを神に要求するのではなくて、あくまでも神が先に立っておられる、という信仰告白でもある。

昨日わたしはあらためて聴力検査を受けて、ろう者だということを強く実感させられ、補聴器ではなんとか音声を聞き取ることはできても、裸耳ではまったく聞こえないことも知った。

さきに引用した聖書から。特にわたしがひかれるのは

神の子キリスト・イエスは、然りまた否と言ふが如き者にあらず。然りと言ふことは彼によりて成りたるなり。神の約束は多くありとも、然りと言ふことは彼によりて成りたれば、彼によりてアァメンあり。

というくだりだ。
説教でも語られたのだけど、どんな状況境遇にあってもまた、マイナスだもう希望がないのだと強く感じたくなるような絶望的な状況境遇にあったとしても。キリストは、然り、と否が共存する方ではない。あくまでも然りしかない。日本語で訳されたからピンと来ないのだけど、わたしはアウシュビッツ強制収容所での体験をもとに書かれた、『夜と霧』の作者、ヴィクトル・E・フランクルのもうひとつの著作、『それでも人生にイエスと言う』のタイトルを思い出す。ここでいうイエス、「Yes」がすなわち「然り」という意味だ。

そういえば、『夜と霧』でも触れられているけれど、あの苛酷な強制収容所では、希望を失った人ほど早く死が訪れたという。どんな境遇にあったとしてもそこで絶望するのではなく、その状況の中から何を見いだし、なにができるのかという、問いの転換が、生き延びようという意欲につながったのだ、と。
安保法制にはもちろん反対だし、ろう者であることもいろいろ苦痛やしんどいなと思うこともなくはない。だからといって「No」ではなくて、「Yes」と、自分の状況や人生を肯定的に見つめること。
奇蹟やいやしなんていらない。そんな、自分の願望を神に要求するようなものではなくて、自分の人生や自分自身を神にゆだねつつ、肯定的に、それでも人生にイエスと言えるものでありたい。

『心の瞳』もだいぶすすんできた。朗読の練習もまた同じ。
ちゃんと神さまが見ていて下さるのだから。