柔軟さがより多様な、しなやかな社会につながる2015/04/01 23:49:46

昨日家庭内戦争(笑)のもととなった、選抜高校野球。
初回に1点ずつをとったあと、8回裏に2点ホームランが出てそのまま、妻の故郷、福井県敦賀市の敦賀気比が福井県代表としても北陸勢としても、初の選抜優勝を遂げた。悔しいけれどどこかでさっぱり、おめでとうと言いたい気持ちがある。

で、今週中に負けた側であるわたしが、妻にごはんをおごる約束になっている。
まあ、いいんだけどね。これくらいはたまにやらないと。今後もそうあることではないかも知れないし、だからこそ高校野球を通して夫婦の絆が深まったと思う。

渋谷区同性カップル条例が成立 全国初、4月1日施行
http://www.asahi.com/articles/ASH3Z6RQGH3ZUTIL05G.html

わたしは個人としてもキリスト者としても、この同性カップル条例に賛成の立場である。クリスチャンや教会教派の中には同性愛に寛容なところとそうではないところがあるが、わたしは同性愛を異性愛とは別の、もうひとつの愛の形と、受け入れたいと思う。

どういう関係なのか知らないから踏み込んで言えないけれど、今日帰りに女性同士で傘に入っているのをみた。街を歩いていても女性同士のカップルをたまにみる。でもいちいち聞く必要はない。それこそわたしたちが手話で話をしていて周囲の人たちから「あれなに?」とジロジロみられたら不快になるのと同じこと。思っていても、詮索しない尋ねない。

わたしもまたろう者でありながら話せるために聴者と同じ扱いをされることで、自分をマイノリティーゆえに生きづらさがあると感じている。
同性愛者だけではなく、そのほかの性的少数者だけではなく、生きづらさを抱えている人たちに、わたしもまた生きづらさを抱えている者として、理解をしていきたいと思うのだ。

保守的な伝統的な家族観からすれば同性愛は理解しがたいかもしれない。それはわたしがろう者でありながら話せることを聴者が理解しにくいのと同じことだ。
もちろんそういう伝統的な家族観価値観もあっていい。わたしの両親世代ならまずそういう立場だろう。
しかし、それだけでは彼らの生きづらさを解消することはできないし彼らの苦しみを解決することもできない。一方的に伝統的な価値観を押しつけてもかえって彼らを苦しめるだけだ。
わたしたちろう者の世界におきかえるなら、日本語対応手話と日本手話のどちらが正しいかで議論し、どちらかを正しくないと切り捨てるのと同じことになってしまう。それではろう者も中途難聴者も、お互いを理解していくことにはならない。むしろ対立がますます深まるばかりだ。わたしはここでも書いたように、日本語対応手話と日本手話のどちらもあっていい。あっていいからこそ理解し合えるように、ろう者も難聴者も歩み寄る必要があると思うのだ。

多様な人がいて多様な生き方がある。その柔軟さが、より多様な人を認め受け入れていく、しなやかな社会につながる。

踏まれてもたくましい芽を出す麦のように。2015/04/02 23:23:41

昨日、同性愛カップル条例について書いたのち、あらためて感じる。
どういうことかというと、ガチガチに人を束縛するような、伝統的な考えを押しつけるだけでは息苦しさと生きづらさが増すばかりだ。コンクリートのような硬さばかりでは、想定外や予想もしていなかったアクシデント出来事が起きたときに耐え切れなくなって折れてしまう。
多様な人がいて多様な生き方がある。多様さを受け入れることは柔軟さだとも言える。
わたしは新約聖書の一粒の麦たとえが好きなのだが、考えてみれば麦は踏まれても踏まれてもまっすぐに伸びようとする。『はだしのゲン』でもこんな言葉があったように記憶している。

          おまえも 麦のようになれ
          踏まれても踏まれても
          たくましい芽を出す麦になれ

ガチガチに硬くなるのではなく、踏まれてもたくましい芽を出す麦のように。

今晩はギター、『心の瞳』。
イントロから歌はじめの部分に入った。同じフレーズが続くからあわてないようにしっかり弾きたい。
このペースなら来月か再来月ごろには終わるかもしれない。
あきらめずに踏まれてもたくましい芽で演奏ができるように。きっとそうなれると信じている。

暖かいせいかな?2015/04/03 23:53:18

暖かい日が続くせいか、桜の開花から散るのも早いように感じる。満開のいっぽう、葉桜がポツポツ見え始めている。
明日は難聴者協会手話サークルの年度末総会と、お昼すぎからの朗読のレッスン2015年度初回。

どちらも楽しみである。

久しぶりの回転寿司2015/04/04 21:07:09

エープリルフールの試合となった、春の高校野球選抜決勝。
結果はすでにここに書いたとおりだが、対戦が決まったときに妻と賭けをしてみごと負けてしまった。

試合の夜はお互い予定があって、週末の今日、港区内のおすし店で回転寿司をおごった。

ふたりともこういう店に来るのは久しぶり。しかも夫におごってもらえるのだから妻がうれしくないわけはない。
週末とあって店内は家族連れでにぎわい、わたしたちは思う存分、こころゆくまですしを味わった。
賭けといってもギャンブルではないし、夫婦の出身郷土の学校が決勝戦で対戦するなんて今後もそうそうあることではない。
ふたりで楽しんだ、高校野球のひとときだった。

あらためて優勝した敦賀気比、準優勝だったけど道民に希望を抱かせてくれた東海大四の両校選手にこころから拍手を送りたい。

イースター礼拝2015/04/05 22:17:18

2週間ぶりに浦安教会礼拝に出席する。イースター礼拝。

復活というのをどう考えるか。
キリスト教の中でもいろいろ考えがあるだろう。肉体のよみがえりであるとか、おどろおどろしいものを語る人もいる。
けれどわたしはそうは思わない。
わたしがろうであり話せることで、5歳の時に聞こえなくなってから(少なくとも聞こえないとわかってから)聞こえを失ったいっぽうでかわりに、聞こえないからだといろんな聞こえない経験を通して、もうひとつ別の、新しい人生を生きるという目標を与えられたと理解している。聞こえなくなってそれでもう終わり、ではなく、聞こえなくなったあとで別の人生を生きるという道を与えられたのだと。

けさのスポーツ新聞に、ミュージシャンのつんく氏が喉頭がんのため、声帯を摘出するという決断を下したと伝えられた。『モーニング娘。』などでも知られていて、いまの『モーニング娘。』はほとんどメンバーの名前を知らないが、初期のころの名前は知っている。その彼女らにとってもショックなことだろう。

しかしそれで終わったわけではない。
むしろそのことを通して新たな人生生き方ができる。
生き直し、もうひとつの人生を生きる機会が与えられたと。

キリストの復活。
けれどキリストはいまもなお十字架にかけられたまま。人間の様々な苦しみや欲望やらいろんな重荷を抱えたまま、十字架にかけられたままだと今日の説教では語られた。
そう、キリストはわたしたちの重荷をいまもなお一緒に負って下さる。
だから、聞こえないという現実が戻らない治らないことが分かっていても、絶望したりあきらめたりはしない。なぜならイエスがすでに十字架の上で絶望して「なぜわたしをお見捨てになられたのですか」と叫んだからだ。イエスが絶望したほどの苦しみはわたしたちにはない。わたしたちの苦しみはイエスのそれにははるかに及ばない。

だからわたしたちは復活を通して生きていこうと希望を抱くことができる。

顔や唇を読む2015/04/06 23:23:16

昨日アメリカ手話学習前に、待ち合わせたレストラン前で、ウェイターふたりが談笑している。それをチラチラとみてしまう。
別にのぞき見しているわけではなく、レストラン内空席ができたときに呼ばれるのではないかと、呼び出しを待っているときにスタッフが来たものだから、ふたりの表情をみているのだ。

もっと正確に言うと、ろう者難聴者問わず、聴こえない人は聴こえを補うために顔や目、さらに唇を見るくせがある。どういうことを言っているのか、何か自分にかかわりがあるのでは、と悪い言い方をすれば勘ぐってしまい、表情や唇から読み取ろうとする。

逆にわたしたちも手話で表すとき、物事の繰り返しや継続という表現のときに表情を入れたり強弱や目に力を入れたりして表す。手話だけでは通じないというより伝えようという思いが聴者の音声会話以上に強いのだ。

さきに書いた、顔や唇を読むというのは聴者の世界では失礼だけど、ろう者難聴者のなかでは失礼にあたらない。
同じように指をさす行為も聴者の世界では失礼だけど聴こえない人たちのなかでは当然あたりまえのこと。

そういうお互いの違いを理解していく。そこから共に生きるということにつながっていく。

いつかは必ず実がなるからね2015/04/07 23:22:28

今日未明からメジャーリーグも2015年シーズンが始まった。
今年のMLB在籍日本人選手で注目はフロリダ・マーリンズのイチロー、ニューヨーク・ヤンキースの田中将大、サンフランシスコ・ジャイアンツの青木宣親。ボストン・レッドソックスの2人、田沢純一と上原浩治、シカゴ・カブスの和田毅も期待している。おそらくシーズン中にはマイナーから上がってくるだろう、トロント・ブルージェイズ傘下3Aの川崎宗則も昇格すればハツラツ元気なプレーを見せてくれるだろう。

『心の瞳』を練習している。まだまだだけど曲に合わせてコード進行もスムーズになりつつある。毎朝妻と見ている朝ドラ『まれ』じゃないが地道にコツコツやっていくことが大事。

気持ちの切り替えと前向きな生き方2015/04/08 23:59:18

欽ちゃん 73歳で大学生に
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150408/k10010042001000.html

人生80年と考えれば、わたしもまだまだ30年も残っているとも言える。
まだ、というべきかもう、と考えるかは人それぞれだが。

小学校時代、萩本欽一さんと坂上二郎さんのコント55号とドリフターズだった。どちらも笑い転げて、後者はPTAからたたかれたけど、時間がたって後から見直してみると、とんでもなく計算して笑いがつくられていたことに気づく。PTAの批判はそれはそれとして、いまだったらとてもあんな番組はつくることができないだろう。

で、欽ちゃんに。

73歳というからわたしの両親とほぼ同世代。ちょっと上あたりだ。
駒澤大学仏教学部の社会人入試に合格するのもすごい。いや、あれだけ芸能人としても成功をおさめているのに、さらに上を目指そうというのは、驚嘆と尊敬すべきものだ。

話は少し前になるが、3年ほど前のNHK番組で、たしか80歳を過ぎたご高齢の方が手話を覚えたいと言っていたのを見たことがある。もちろん簡単なことではないけれど、指文字を覚えたことをうれしそうに語っていた。

100歳まで生きる自信がないし、そんなに生きられるかわからないが、少なくとも80歳が平均寿命のいま、高齢になってもなにかをやろうというのはとても意義のあることだと思う。
「忘れたっていいさ、忘れたら違うことを覚えるからいいさと思って」
そうだね。
そういう気持ちの切り替えと前向きな生き方が、どんな薬をのむよりはるかにいいのかもしれない。

70年が過ぎたいまもなお2015/04/09 23:45:27

今年、2015年は第2次世界大戦、そして太平洋戦争終結とドイツ、日本、イタリアの敗戦から70年の節目にあたる。

南太平洋のパラオを訪問中の、天皇と皇后が今日、かつての激戦地であるペリリュー島を訪れた。この島では日本側約1万人、アメリカ側1700人が亡くなった。

パラオというとわたしは海援隊の「パラオ・ゼロファイター」という曲を思い出す。

何年前かは覚えていないのだが、武田鉄矢さんが若いころにテレビの取材でこの島を訪れて、海に沈んでいる零戦をテーマにつくった歌だ、ときいたことがある。海援隊のアルバム『ようやく解りかけてきた』にも収められている、千葉和臣さんの高音のボーカルとメロディーラインが夏というイメージを感じさせる。

戦争は、どんな理由があっても、けっして美化されるものではない。
今日の現地からの生中継でも、錆びついた戦車、朽ちた武器などが映し出されていた。「パラオ・ゼロファイター」のなかでも「南の魚たちが 翼の上をすぎる 透き通った海に 緑のゼロファイター」とあるように、戦いが終わって、むなしさが残る。歌詞には、のどかな海でサンゴを枕に眠るゼロファイターの、はかなさやるせなさがうたわれている。
家族を失った遺族の思いも伝えられていたが、70年がたっても悲しみは消えない。

    戦はとうの昔 敗れて終わったのだ
    守るべき人も お前を忘れたのだ
                             (「パラオ・ゼロファイター)
 
悲しい歴史を忘れることはあってはならない。
そう天皇は語ったという。
戦後20年目の生まれであるわたしも、この言葉には同感である。
過去の歴史に目を向けることなくして未来を語ることはできない。

わたしは歴史の美化には抵抗するし嫌悪を抱く。
過去と向き合うことが、70年前、海に沈んだゼロファイターのパイロット、遠い島で亡くなった日米11700人の方々のためにも大事なことであると思う。

精いっぱいしたたかにたしかに2015/04/10 23:42:29

昨日、一時的にではあるが株価が20000円、というニュースが全国を駆け巡った。

けれど正直言って学生時代から社会人になってしばらくまで続いたあのバブル景気を体験している一人として、株価が上がったからといって生活や給料がよくなったという実感があるかといえば、全然、というほかない。

無理もないと思うのだが、あのころと今を比べてみると、社会の空気が全然違う。
バブルのころのファッション文化は「イケイケどんどん」というか「もっとよくなる」という根拠のない希望感があった。
いまは希望どころか閉塞感が充満していて将来に期待も持てない感じられないというのがほとんどではないだろうか。

こんななかでどうやって生活をしていくのだろう。介護も、いや自分の健康さえもどうなるかわからない、というのが大多数の人たちの心境なのではないか。

あさって統一地方選挙の投票がある。
国政とは異なり、身近な自治体の選挙ではあるが、しかし、政治家には多くを期待できない。
シニカルに冷ややかに見る一方で、わたしたちはそれでもあすに向かって生きていかなくてはならない。
株価に左右されず、いまできることを精いっぱいしたたかにたしかに生きていこう。