いま今日という瞬間2012/04/01 15:14:20

今日はエープリル・フールだけど、ぴったり合うウソが思いつかない。

いつものように礼拝から一日が始まった。
前奏楽が終わって朗読された聖書の個所は、わたしの好きな、そして名刺にも入れてある、ヨハネによる福音書12章24節。ほとんど聞き取れなかったけれどそらんじているくらいだから、この個所だと知って背筋が伸びた。

礼拝説教の最後に、牧師はこう語ってくださった。筆記してくださったメモから引用する。


   わたしたちは死で終わりではない。永遠の導き、神の愛がある。
   ここにわたしたちの希望がある。

礼拝で語られた聖書の個所はマタイによる福音書22章23節から33節。
ユダヤ教のサドカイ派とイエスの問答だが、牧師も語ったように、サドカイ派の論理は矛盾しているだけではなく、イエスをバカにしていたとも思える。なぜ矛盾を感じるのかというと、サドカイ派はいのちの復活を信じていない。だのに復活をテーマに議論をふっかけたのがそもそもおかしい。
イエスを「先生」と呼称しているのも、へりくだっているように見えて実はイエスをやり込めたい悪意がこめられている。
だが、イエスはそんなのはすっかりお見通しで「あなたがたは聖書も神の力も知らない」と逆に論破する。読んでいて何となくスカッとくる気さえする。

説教からわたしが読み取ったのは、サドカイ派に限らず自分たちの限界、知識だけで――つまり自分で枠をつくるのではなく、枠を超えたなにかを受け入れ信じていく、というところから始まるのではないだろうか、ということだ。

わたしもいつかは死んでいく。
このごろあらためて思うのだが、明日がない、明日が来ないと知ったとき、いま今日という瞬間がとても緊張感を伴って新鮮な思いで迫ってくる。
いろいろな思いがあったこの一週間だが、だからこそ明日からの新しい一週間を、いい意味での緊張感をもって生きていきたい。
今日という日は二度と帰ってこないからこそ、緊張感を大切にしたい。

新鮮な気持ちを失わずにいたい2012/04/02 23:15:58

新年度が始まった。
わたしが勤めている会社にも新入社員がやってきた。みなさんのところにもいらっしゃるのではないだろうか。

希望と夢を持ってきたけれど、だんだん現実とぶつかり、自分の力のなさに幻滅したり、オトナの論理や矛盾に負けそうになったり。

でもそこで成長を止めるかあきらめるか。
今日より明日、明日よりあさって。
きっと未来はよくなる。

そう信じ続けることだ。

春の嵐2012/04/03 23:05:33

ごみと化したビニールかさ
いやあものすごい雨と風。からだがすっ飛んでしまうかと思ったものだが、今晩の手話勉強会を終えて自宅に着くまで、電車は止まったり動いたりを繰り返して1時間くらいかかっただろうか。

ほんとうは5月から相談したいと思っていた、今秋9月のコスモス朗読会台本についても、手話勉強会の後に先生と少しお話をした。

明日は手話サークルの夜のお花見会の予定だが、まだつぼみもないだろう。

新ジャージ 発表2012/04/04 22:08:27

2012-13シーズンまではまだまだ4カ月さきだが、今年からジャージや衣類などの契約をNFLと交わした、スポーツウェアメーカー大手のひとつ、ナイキが2012年から使用するジャージとパンツの新デザインをこのほど発表した。

http://www.nfljapan.com/photo/32394.htm

昨年ウェブ上にでたものとは異なって、従来のデザインを大きく超えたものはなかったが、それでもシアトル・シーホークスはヘルメットからロゴが消えるなどの変更もあった。
わがオークランド・レイダーズは変化なし。

やっぱり長い間に定着しているものは変更しないほうがいい。
たとえばニューヨーク・ヤンキースだって縦じまだからヤンキースなのだ。

ともあれこれでほっと一安心。
4カ月後が楽しみだ。

来る人がいれば去る人もいる2012/04/05 23:59:38

新入学生、新入社員らの姿をあちこちでみる。わたしもン何十年前に彼らと同じだったことを思い出す。

わが身を振り返ってみると、残り時間がだんだん少なくなっているなあと感じることもある。人生の時間はまだあるようでいて実はないのかもしれない。

ということは、一瞬一瞬を意識していかなくてはということでもある。

明日からの新しい日も、何かをなしたといえる日でありますように。

20㍍を超える津波2012/04/06 23:58:03

小学校4年生からずっとマンション暮らしのわたしは高層階での生活に慣れているといえばそれまでだが、先月31日に内閣府が発表した「南海トラフの巨大地震による最大クラスの震度分布・津波高の推計結果」は、ショッキングな内容もあって、4月1日の新聞各紙1面トップで大きく取り上げられた。

これまで最高17㍍とされた津波が、34・4㍍だという。高知県6都県を20㍍を超す津波が襲う、というのだから穏やかな話ではない。

アマチュア無線をやっていたころ、すでにマンション暮らしだったが高さを30㍍くらいあります、とアナウンスしていた記憶がある。いまわたしが住んでいるところも30㍍はゆうにあるのだが、もしこんな高さの津波が襲ったら、マンションだってどうなるだろう。

もちろん34・4㍍という数値は「考えられうる最大値」であって、絶対にこの規模だと断定できるわけではない。
しかし、マグニチュード9クラスのあの地震は、あの日まで「起こるわけがない」とたかをくくっていたのに起きてしまった。

そうなるともはや何がおきても「想定外でした」などというのは言い訳に過ぎなくなってしまう。

わたしがよく足を延ばす有楽町や卓球練習で立ち寄った田町の山手線ガード下。
冷静に考えてみると、危険だと思ったことが何度もある。新幹線が高速で走っていく振動を感じることもあるのだが、もし地震で線路や橋脚が折れたり崩れたりしたらどうなるか。そのとき近くを歩いていたら。

新年度最初の『朗読のレッスン』。2012/04/07 23:55:47

新年度に入って最初の『朗読のレッスン』。
今期、6月までのテキストは森浩美さんの『こちらの事情』(双葉文庫)から「短い通知表」だ。

桜が咲くころ、突然倒れてこの世を去った妻、潤子と神田にある広告代理店に勤めている夫。
夫が提案した「家庭内通知表」、お互いを評価しあうという試みに娘息子も賛成したが次第に試みから離れ、妻だけが最後まで夫への通知表を書いていた……。

何度も読み返して鼻の奥がツンとなった作品である。

今期から、レッスン後にコーヒーをご一緒してくださったり筆談をしてくださったりと親しくして抱いた朗読仲間がおやめになられ、朗読レッスンでいま、どこを読んでいるのかなどがつかみにくくなった。
そういったことも含めて朗読を教えてくださる先生は仲間に配慮を求めてもいいし、わからなかったら聞いてほしいともおっしゃってくださった。
教えにくいかもしれない重度難聴者を受け入れ教えてくださることにこころから感謝している。

今日のテキスト「短い通知表」で指名されたところは、定年間近の主人公と中堅社員の会話の場面。もっと声で変化をつけるなどしてほしい、と教えていただきそのとおりに演じられた。

まだ早いが、今年9月29日に下北沢でひらかれる第7回コスモス朗読会。
そのレッスンスケジュールも発表された。
実は今年に入って読みたい題材があり、今日先生にコピーを差し上げた。
まだ決めていないが今月中には決めなくてはと思う。なぜなら手話をつけるためにはほかの人より早めに立ち上げなくてはならないからだ。

明日はイースター。
主の復活とわたしたちの命、生きる意味をこころに刻むことができますように。

美術鑑賞と桜2012/04/08 22:53:39

国立新美術館前で
イースター礼拝。
イエス・キリストの死と復活を信じ、わたしたちに救いがもたらされたというキリスト教信仰の根幹である。
まだ決めていないが、今秋の舞台でも生きることという意味を問う作品を読みたいと思うのは、イースターをはさんでいろいろなことがあるからかもしれない。

牧師は説教で「いまだイエスさまは十字架にかかれられたまま」と語られた。
十字架のあと、死から復活を遂げられたとあるのに。
しかし、わたしたちはいまだ戦争や憎悪や対立のさなかにある。まだほんとうの救いを得られていないのかもしれない。

さて礼拝のあと、眠く疲れたからだをひきずって六本木にある国立新美術館へ足を延ばした。第71回水彩連盟展を観に行ってきた。
絵心どころか描くこともへたなわたしだが、たくさんの作品に圧倒される思いであった。
テレビ画面何枚分もある大作や、浮き出てくるような迫力あるものなど、いろいろなものがあった。
東北の方だろうか、昨年の大震災を主題にしたものもあり、美術界でも震災が大きな衝撃だったことは想像に難くない。

帰途に着く途中、桜を何枚も写真に収めてきた。
季節が移り変わり、そのなかで桜は一瞬の美しさをみせる。
わたしたちも地球の尺度ではあっというまの時間を生きている。
イエス・キリストの死と復活を信じ、わたしたちに救いがもたらされたということを信じるのなら、もっと真剣に生きていかなくては。

もう春なんだな2012/04/09 23:41:34

青空の下で咲く桜
けさテレビのニュースで、今日の気温が、北海道を除き20℃まで上がると伝えられていた。
そろそろ夏スーツを引っ張り出してもおかしくないか。

「。」と「、」がない代わりに2012/04/10 23:55:40

未明の東京スカイツリー
手話というと、「速い」「難しい」というイメージを持たれる方がいまだに多い。
たしかに言葉だからすぐには覚えられない(英語を見よ。中学から大学まで10年やったにもかかわらず!)のだから。
でも必然性=生活の中で必要だ、という意識をもつこと・習うより慣れよ=はじめはたどたどしくても使い続けること・継続は力なり=学びを続けていくこと、があれば道は開けると信じている。

秋の舞台はまだ台本を決めかねているのだけれど、ひとまずわきに置いて、よくみなさんが感じる「難しさ」を考えてみたい。

日本語だったら、書き言葉、文字だったら当然、「。」「、」がある。「今日、テレビで大リーグ中継を見た。ダルビッシュがなんとか勝って、とても安心した」というように。
だが手話は文字で言う「。」「、」がない。というかそもそもありえない。
その代わり、「。」のときは手を前に置く。文がいったん終えることを示す。「、」はうなづきで表す。
さきの文を例にするなら。「今日、(ここでうなづく)テレビで大リーグ中継を見た。(ここで手を置いてとめる)ダルビッシュがなんとか勝って、(うなづき)とても安心した」というように。それを速く表しているのが日本手話でありろう者の人たちだ。
例の文は自分だけで言っている、独白だが、たとえば会話のときはからだや顔を左右に向けたり視線の向こうに話し手がいるとイメージ仮定して表す。
例文を少し変えてみよう。

A 「今日、テレビで大リーグ中継を見た。」
B 「へえ。で、どうだった?」
A 「ダルビッシュがなんとか勝って、とても安心した」

AとBの会話とすると、Aを左、Bを右とイメージ仮定して、まずAの文を左へ向けて表す。Bは演じるわたしがBになりきって、Aがいるとイメージして右へ向ける。最後のAも初めと同じように左へ向ける。

これを速くやっているのが手話落語だ。そもそも落語はひとりで何役も演じていく。だから手の動きも顔もからだの向きもいろいろ。そうやって登場人物や語り手を演じ分けていく。メリハリとテンポよく表していく。

初めは慣れなかったりぎこちなかったりするかもしれないが、落ちついてゆっくりやっていこう。次第にコツがつかめるようになる。
秋の舞台でもいつかやってみたい手話落語でも応用がきくだろう。