バランスを保ちながら2012/02/01 23:42:41

いまは通常というか、手話の読み取りや表現に重点を置いているけれど、また春になって暖かくなってきたら朗読の取り組みを始めることになるだろう。わたしの中では今年やりたいテキストの私案があるけれど、手話通訳士先生とも相談しなくてはならないから最終決定はまださきのことであるが。

舞台の取り組みは春から4カ月ぶっ通しでやる。そのあとはまた通常の表現や読み取りに戻る。そういうサイクルを重ねていって大事なことは、バランスをうまくとりながら覚えていくということ。
会話の読み取りや会話そのものを重ねてコミュニケーションを覚えながら、舞台で会話とは違った、「表現する」「魅せる」手話もこなしていく。それが相乗効果をもたらすのではないか。朗読も声だけのレッスンが続いているけれど舞台が近づいたらもちろん声だけではない幅広い表現が求められる。声だけ、会話、魅せる、その3つが相乗効果をもたらしてくれると思う。

手話へのこだわりはもちろんある。聴こえないからだ。わたしは確信している。神様が備えてくださることを。わたしが聞こえないことも手話ができることも手話を覚えたいことも。わたしをそのようなからだにつくってくださったのは神さまであり、わたしを救ってくださったのはキリストだと、信じている。

「夢を見るな」というより「夢を追い続けろ」というほうが2012/02/02 23:07:46

連日のさむさにからだがまいったか。けさは朝食をとった後から頭が痛く仕事中もすっきりしないまま。おまけに昼食でとったカレーライスをぜ全部吐いてしまった。マッサージを受けてかなり楽になったけれど、まだまだ寒い日が続くから気をつけなくては。

というわけで仕事のあと、注文していた品が入荷したと聞いて渋谷まで足をのばしてきた。
今日読んだ聖書の個所から、こころひかれた聖句をいくつかあげてみたい。もちろん文語体で(笑)。


 エホバよ我なんぢを待ち望めり 
 主わが神よ なんぢかならず答へたまふべければなり
 
                         旧約聖書 詩篇 39:15

結局、自分の力だけではどうにもならないものがこの世にあるということ。一方で、かくありたいと思い続けそのための歩みを絶えず続けていくこと。「夢をみるな」と訳知り顔したり顔で押しつけるより、「かなえられないかもしれないが夢を追い続けていくことでよりよい人生を生きていく可能性がある」というほうがどれだけ人生を豊かにするだろう。

いつも言っているように障がいがあっても不幸ではない。不便だろうが不幸ではないのだ。障がい者を不幸にしているのは、障がいがあるから不幸だと押しつけ決めつけている側にあるのだ。

堂々と生きていこうではないか。一度しかない人生だから。

大事に尊重したいから、こだわるのだ2012/02/03 22:12:29

昨日マッサージを受けてからはだいぶ体調も楽になり、今日は弁当を持っていった。やっぱり弁当をつくっていかないと落ちつかない。

イエスの言葉 ケセン語訳 山浦玄嗣さん
http://book.asahi.com/reviews/column/2012012900016.html

文語体聖書にこだわり、礼拝でも祈りの会でもこれを愛用している。
この「ケセン語聖書」は手にしたことはあるがまだきちんと読んだことがない。

手話も方言も文語体も、共通しているのは「文化」だということ。
聴こえない人にとっての言語である手話。ふるさとの言葉。わたしだったら北海道弁。なまら~とか~だべさとか、最近はめったに口にしないけれど新千歳空港に着くとすぐに口に出てしまう。そして先人が使っていた文語体。

それぞれに歴史があり重みがある。
それらを大事に尊重したいから、こだわるのだ。

夢と希望と意欲を2012/02/04 23:33:20

「朗読のレッスン」でみなさんと一緒にご指導を受けたあと、代々木上原へ移動して、朗読仲間がひらいた発表会に行ってきた。

まずレッスンでは、文と文の間をおいた読み方と、登場人物になりきってからだを左右に向けるスタイルをほめられた。この年にもなってほめられるのはめったにないこと。すなおにうれしい。
からだを左右に向けるのは手話で会話場面や複数の人物を表すときによく使う。手話落語にも挑戦したいわたしには当然覚えなくてはならないこと。

仲間の発表会は、正直、聞き取るのはつらかったけれど、聞き覚えのある作品はなじめたし、手話でこうやってみようかと、その場で簡単な表現をイメージしてみた。
パーティーでの会食後、坂本九さんの『上を向いて歩こう』を全員で合唱する。わたしだけ、手話つきで歌った。周りから浮いていたかもしれないけれど、気にする必要はない。堂々とやればいいのだ。

わたしもいつか舞台をプロデュースしてみたい。
もっともっと朗読も手話もうまくなりたいと思いを新たにされたし、日々の生活もよりよいものにしていきたい。

夢と希望と意欲を新たにされた、週末の一日である。

真冬の新宿の夜に思う2012/02/05 18:27:59

朗読を学ぶ場所は新宿区。都庁近くだ。
首都圏直下が言われている折、先月末に、丸の内のオフィス街地下で冬の夜に帰宅困難になったという想定で泊まる訓練をしたそうだ。ダンボールやテントをしいたり広げたりしたそうだがそれでも寒くて眠れなかった、と伝えられている。
もしこんな時期に帰宅困難になって路上や地下で泊まるということになったらどうなるのだろう。寒さ、食事や衣類、余震……。

災害は起こる時間も場所も人間の都合なんか考慮してくれない。
起こる確率が何パーセントであれ、起こるときはまちがいなく起こるのだから。

ちょっと遅めの夕食は2012/02/06 22:39:57

コチュジャン風焼きうどん
今日から札幌では雪祭りが始まったという。故郷を出てこの時期、雪祭りを見たのは数えるほどしかない……。

さて仕事を終えて近くの喫茶店でココアを飲んだ後、自宅へ帰ってから夕食などの食材を買いに行ってきた。冷蔵庫にいくつか食材が残っているほか、使い切らなければならないものもある。震災後、あらためてモノを大事にしようという思いがわいてきた。食べたくても食べられない国や地域の人たちのことも脳裏に浮かんでくる……。
で、今日は遅めの夕食を焼きうどんにしてみた。

いまは便利なもので、ラーメンや焼きそばの野菜セットなるものがスーパーに並んでいる。3人前くらいだから野菜を買いすぎることもない。
焼き肉の素などもあって手間ひまがはぶける。
この野菜セットを、豚肉と一緒に炒めながら、うどんをおよそ2分30秒ほどゆでてざっとざるに移して冷ましておく。炒めた野菜と肉に、これまた今日買ってきたコチュジャンの素をうどんと一緒に炒めた。
味は辛いコチュジャンと豚肉や野菜がうまくからみあっておいしい。
あっというまに2人分をひとりでたいらげてしまった。食べすぎかもしれない(笑)。

美観は人それぞれ2012/02/07 22:41:45

小学生時代に見た、平将門を主人公にした「風と雲と虹と」(1976年1月4日~12月26日放送、加藤剛さん主演)以来だろうか、平安期を取り上げた大河ドラマはこれ以来である。その久しぶりのドラマ、「平清盛」を先週日曜日にはじめて見た。

このドラマが放送開始直後に兵庫県知事の井戸敏三さんが「画面が汚い」などと発言したのが話題になっている。
わたしの私見であるが、昨日見た限りではそれほど汚いとは思えない。むしろよく描いているとさえ思う。

今回の作品は、ハイビジョンカメラを使っているほか、美術監督もカメラマンも、当時の時代背景を考えてわざと汚く演出しているのだときいたことがある。考えるまでもなく時代考証をしたうえで、こうした演出をしているのだから、目くじらをたてるほどでもないのではないか。
いまの時代感覚からすれば汚いかもしれないが、アスファルトもコンクリートもない時代。ましてわたしたちがいま着ているようないい材質の布などなかったはずである。加えて武士階級は当時、まだ社会的には低い立場にあったのだから、薄汚れた身なりでも説得力あるものだろう。

なにより県知事という立場であれこれをいうのはおかしいのではないか。一般の視聴者ならいざ知らず。極端かもしれないが、県知事としての立場を超えていると思うのだ。放送や表現の自由に介入すべきではない。

結局は「美観は人それぞれ」ということ。
まだ始まったばかり。いいたいことはあるだろうが、あまり口を出さずに黙って見ていこうではないか。NHKだって考えてつくっているのだから。

数字に振り回されるのではなく2012/02/07 23:28:50

手話サークルを終えて久しぶりに飲み会に顔を出そうと、会場を出た瞬間、スマートフォンに「佐渡で地震、予想震度は5」という緊急警報が入った。

先日も書いた、首都圏直下の地震に関する予測で、京都大学が計算した結果、「5年以内に起きる確率は28%」と出たそうだ。
東京大学は4年以内に70パーセントだから、えらい違いと言えなくもない。

だが今日手話サークル後に人と話したのだけれど、確率が何パーセントであれ、いつかは起きるのだから、数字に左右されないことだ、という。

わたしも同感である。
数字に振り回されるより、日ごろからの防災対策をしっかりしなくては。
それでなくても聴覚障がい者は緊急時には周囲からの助けを得られないことが多いのだから、自分で身を守るしかない。

排他的、視野の狭い偏狭な目では2012/02/08 22:58:07

たしかにプレーヤーは身の回りにはそう多くないかもしれないが、わたしにとってとても魅力的なスポーツである、アメリカンフットボール。
スーパーボウルが終わったばかりだが、世の中には「フットボール」といえば「サッカーだ。フットボールなんてアメリカだけでしかやっていないスポーツだろ」「デブが動き回るだけのスポーツ」と決めつける言動をする人もいる。

基本的にわたしは、「あなたがそう言いたい気持ちもそういうことを発言する自由も認める。しかしわたしはあなたの考えにはまったく同感できない」と思う。それどこか「自分のスポーツだけを優位において、他者のスポーツを認めない、排他的な考えだ」としか思えない。

そういう排他的、視野の狭い偏狭な目では、どんなスポーツだろうが芸術だろうが、評価も批評もできないだろう。

卓球をやってどれだけ卓球が過酷でたいへんなスポーツであるか身にしみてわかっている。だからマラソンも野球もモータースポーツも、そこに身をおいている人たちの苦労、厳しいトレーニングなど、みてきて尊敬と敬意を抱いている。

たしかに世界的にはフットボールといえばサッカーなのだろう。手を使わないということとボールひとつあればできるシンプルさが魅力だろう。
だがアメリカンフットボールもキッキングゲームがあり、ボールをどこまでどうやってけるかにも戦略や意図がある。ボールを持って走ったり投げたり、足をまったく使わないわけではない。あんな重いヘルメットに防具をつけてよく走れるものだ。
だからサッカーとは異なる魅力があってそこにわたしはひかれている。

ほんとうにスポーツが好きなら、ほかのスポーツにもそれなりの敬意をもつべきだ。
それこそがほんとうのスポーツ好きというものだろう

からだは正直だ2012/02/09 23:08:29

暖かい一日だった東京。

ここ数日、肩からひじにかけて痛みを感じる。トシなんだろうなあと思いつつ、グルグル肩や腕を回したりもんでみたり、ボールの投球動作をしてみたり。

仕事中も痛くてさんざんだった。
週末は手話づくしになるだろうから、楽しく手を動かせると思う。