物価が上がっても2007/11/01 23:52:11

このあいだ何気なしにガソリンスタンドのそばを通りかかって、140円台なんだと思ったら、今度は150円台まで上がったとか。
昨日大豆などの高騰について少し書きましたが、ガソリンも上がるとなると、いつも利用しているバスやタクシーなどに影響が出てくるのは間違いないだろうね。いずれ運賃が上がるのだろうか。
消費税も10%だの15%だの、いろいろ税率を上げる試案が伝えられています。
物価が上がっても一般庶民にとって収入が上がらないのだから、今年の年末はたいへんかもしれない。

年賀状が発売されました。
もうそんな時期になったのか。月日のたつ早さを実感した一日。

歩け歩け 楽しむこと2007/11/02 23:36:08

今月1カ月間、体重を落とすために「食べて動いて歩く」健康管理プログラムに取り組む。会社の保健健康管理の部署から案内をいただいたのがきっかけである。

もともと歩くのは嫌いではない。
昔ウオーキング大会に参加して、墨田区役所から隅田川沿いを下って銀座まで歩いたときはさすがに翌日こたえたけれど、歩いた後の爽快感がたまらなくここちよかったのが忘れられない。春に奥多摩山中を歩いたことも楽しかった。ドレスデンでもアムステルダムでも、ホテルから1~2キロ歩いたかな。ドレスデン市内中心部から南下してあたり遠くまで、丘陵が広がる風景を歩きながら、すれ違う人たちと会話したり、途中レストランに入ってパスタを食べたり、道端に咲いている花をスケッチ撮影したりした。

さてこの健康管理プログラム。
やせたいから参加したのであるから、プログラム自体は苦痛には感じない。
一番よくないのは義務感が苦痛に変わることだろう。
といいつつプログラムの中にしっかり、「隣の駅まで歩く」という項目がある。さらに会社の階段を使って上り下りするというのもある。
仕事のある日は往復どちらか、あるいは仕事が早く終わったときは往復、隣駅まで歩く。階段は3階分を歩く、と漫然と歩くのではなく、自分なりにできる目標を入れたつもりだ。

なにがなんでもやせよう、と強い意思でプログラムに取り組みつつ、苦痛にならないように、歩いているあいだ、歩くことを楽しむように。
楽しむこと。これは歩くことだけに限らない。仕事でも手話でも朗読でも共通して言えることだね。

もし年をとっても動けるなら、どこまで歩けるか限界に挑戦したいなと、いつかまたウオーキング大会に参加したいと思っている。

夕焼け小焼けで日が暮れて2007/11/03 23:13:46

夕焼け小焼けで日が暮れて
午前中は曇り、午後からは日が差し込んだ、例年よりすっきりしない天気だったけれど、教会のバザーに参加してきた。少しでも貢献しようと(?)カレーライスを2杯もいただき、缶コーヒーとホットコーヒーも一杯ずつ。おかげで周囲からは「おなかがふくらんでいるよ」と腹をたたかれてばかり。違うって、ウエストポーチをつけているからふくらんで見えるだけだっていうの!
ちなみに今日は3食全部、カレーライス(笑)……大丈夫か? ホントに。

で、バザーが終わって後片付けを済ませて、都内へ所用のため移動する途中の空を写したのが、これ。
生きていることを実感するときはいろいろあるだろうけれど、わたしにとっては朝焼けか夕焼けをみるときだ。朝がくれば「新しい日だ」であり、夕になれば明日の朝を待ち望む。賛美歌にも聖書にもそんな文があったことを思い出す。
夕焼けを見るとつい、タイトルに書いた童謡を歌いたくなる。
クリスチャンだけれど、山のお寺の鐘を聴いてお手つないで家に帰るという詞は遠い昔、遊び疲れて夕焼け空のなか、「ごはんだよ~」と呼ばれた思い出と重なり、この曲はとても好きな歌のひとつだ。

バザーもお客さんが来てくださり、盛り上がり楽しいひとときだった。
いいものは早く売れちゃうんだよねぇ。フリーマーケットでもしかり。

さあ、やせるためにまた運動をしてしっかりからだを暖めて。

新しいコンタクト2007/11/04 21:39:40

いま着けているコンタクトが合わない、気に入らないというのではない。補聴器もそうだけれど、からだに合っていないものを着けるというのはかえってからだに悪影響を与える可能性が高い。たとえば補聴器も、聴力に合っているかいないか。無理をして音量を上げたり実生活での聞こえ具合で、聞きづらかったり聞こえにくかったりしていないか。最近のデジタル補聴器はかなり高性能だと聞くが、かえって使いこなせなかったり使う上で不必要な機能があったりと、難しい。だからユーザーとしては何度も何度も販売店に通っては調整を繰り返してまだそれでも合わないともめることがある。クレームではなく、生活していく上で必要だからこそ、メーカーもユーザーも真剣になっているのだ。

で、冒頭にあげたコンタクト。
いま使っているのは2週間おきに使い捨てのものだけれど、14日のあいだ2日はメガネで過ごすようにしなさいと言われている。めがねがいやなのではないが、1週間つけたままだという、新しいコンタクトを試してみたくて、昨日から試用してみた。

慣れの問題だけれど、いまのところは違和感も苦痛もない。
これで医師の検査と診断で問題ないと言われたら、次回からこれに変えるかもしれない。まだ一箱、2週間おきに使い捨てのものが残っているので、これを使い切ってからの話になる。

礼拝と行事が終わってから、隣の駅の近くにあるという、卓球ショップ兼練習場に行ってきた。事前に調べてはいたけれど、教会を出てから着くまでに1時間もかかり、自宅に着いて歩数計を見たら1万歩を超えていた。うれしいね。

突然の訪問にもこころよく応対してくださり、スタッフの女性が練習相手を務めてくださった。
ワイシャツにスーツネクタイ、ふだん使っているのとは違う軽くて反発力の弱いラケットだったけれど、いつもと変わりなくスムーズにプレーができた。
練習も含めて会員になったので、また仕事が終わってからでもラケットとウエアを持って練習に通いたいと思う。
使用しているコンタクトも違和感なく、はっきり球の回転がみえた。

夕焼けを見ながら、今日からの一週間をまたがんばろう。

親の心子知らず 子どもの心親知らず2007/11/05 23:46:04

だんだん年をとってくると、子どものころには気づかなかった、あるいは無視したり避けたりして、あるいは理解できなかったことが突然ふっとわかるようなことがある。
たとえば。なんだろう。働くこと。生きていくこと。

けさの朝刊を読んでいて、親の気持ちが年をとったいまになってよくわかる、という話に触れて、つくづく実感したものだ。
これで子どもがいたり、家族がいたら、また違ったものの見方をするのだろうね。

ひとつだけ言えることは、「親の心子知らず 子どもの心親知らず」というけれど、子どもを心配したり思わない親はいないということ。いくつになっても子どもがいい年齢になっても、親から見たらハラハラしどおしなのだろうねぇ。自分もいつか親になったら、子どもを心配してみるのだろう。

いのちのリレーといっていいのかもしれない。
遠く離れていても、どこかで絆で結ばれているような気がする。

昨今の悲しいニュースを聞くにつけ、いったいいまの家庭はどうなってしまったのだろうと暗たんたる思いにかられながら。

あごをあけたまま1時間2007/11/06 23:01:00

今日は予約していた歯科で治療を受けた。

ギーギー振動する機械はやっぱり何度見てもダメ。いすに座ってしばらくはブルブル恐怖に震えるかよわき羊のようなありさまだったけれど、いったん覚悟を決めたらしゃあない、と煮るなり焼くなり何でもしてくれ、とまな板のコイ状態であった。

治療は、歯の神経を抜くのが目的。それはいいんだけれど、1時間のほとんどを、あごをあけたままだったもので、最後はもう疲れてしまった。やれやれ。痛みがないから楽ですよ、という説明を受けてひと安心。

昨日、いつも利用している航空会社からマイレージカードが届いた。以前もっていたけれど紛失してしまい、あらためて申し込みし直したのだ。

カードには「Edy」のマークが入っている。いわゆる電子マネーサービスというやつだが、どうにもこうにも使い方がよくわからない。このあいだコンビニエンスストアで、この電子マネーサービスで買い物をしているのを間近で見たけれど、多額の現金を入れるのは危険すぎる。それでなくてもスイカだのイコカだの、パスモだの、どんどん電子マネーが身の回りにあふれている。
便利なのは間違いないけれど、カードで買い物ができるからと、めったやたら使うのも考えもの。
せいぜいコーヒー代くらいを入れておくにとどめた方が無難だろうね。

黒! Black! Schwarze!2007/11/07 23:38:35

お気に入りの電池チェッカー
補聴器を使っていて困る場面はいろいろあるが、なんといっても電池切れがわからないまま、ということはやっかいだ。わたしの場合、左右に補聴器を着けているけれど、右はどうにか音声が聞こえるけれど、左は逆に音声がかなり大きくない限りわからない。このあいだから試用しているコンタクトの件で、いつもお世話になっている眼科のスタッフと、わたしの障碍について説明をしたとき、左は太鼓に手を当てた振動で太鼓が鳴っているのがわかる、そんなレベルの聞こえ具合です、とお話しした。ということは、右よりは左の方が重いわけで、当然補聴器の電池切れも左は、いつのまにかなくなっていると気づくことが多い。

今日、補聴器販売店に注文していた、電池チェッカーが入荷したという。
本体にある説明文のとおりで、金色の部分に補聴器の電池を置いて、上に当てると黒色の点滅で電池の消耗がわかるようになっている。

昔持っていたのは、赤いランプの点滅でわかる仕組みだったけれど、暗いところに行かなければ見えないものだったから使いにくかった。
これは本体が黒色。卓球練習でも手話ソングダンスの練習でも、黒色のフットボールジャージを着ているほど、わたしは黒色が好きな色である。ゆえに、この電池チェッカーはまさにお気に入りのひとつになった。
ちなみに上にあるのは黒い笛。地震の時などに笛を吹けば、ひょっとして助けが得られるかもしれない。しかしよく見てみると、この笛では音が大きくないから不向きかもしれない。フットボールのジャッジやアンパイアが使っているような、大きな音が遠方まで届くような笛の方がもっといいだろうか。

買い替える予定の補聴器も、いまはボディーのカラーが選べるようだから、黒にしてみるかな。いや、右は黒、左は銀、と、ひいきのアメリカンフットボールチームのヘルメットやジャージの色と合わせてみるか、なんて、冗談を言ってみたりする。
そんなくだらないおしゃれもあっていいよね。

仕事が終わるとなんだかねぇ2007/11/08 22:19:05

昨日は仕事の締切日。終わってから同僚・上司と一杯やってきた。ピザやハムの味はとてもおいしく、またいつかはひとりで来てもいいなと。いや、ひとりで来る所じゃないですな。

で。
締切日が終わって次の仕事までの空白があると、かえって疲れてしまう。
どうやらわたしはギアを目いっぱい入れていたがる性格のようで、空白時間が苦痛に感じる。

ときには空白時間も大事だとわかっているけれど。

暦の上では今日から冬。

Fire Work2007/11/09 23:20:53

もう祝ってくださいなんていうものではないのだけれど、今日はわたしのン十何年目の誕生日。
はあ。子どものころはよかったけれど。あたりまえだね。だんだん年を重ねてくると、得るものより失っていくものが多く感じられる。でもそれをネガティブにとるのではなく、重荷を減らして身軽になっていくのだと。子どもから若いときは経験がないから重荷を背負う、つまり経験していくわけだけれど、年を重ねて経験が増えてくると、徐々にいらないものを捨てるという方向にベクトルが変わっていく。人生ってそういうものなんだろうねぇ。とはいえ、まだまだ未経験、経験していないものもあります。これからまだまだいろいろなことがあるのでしょう。

今日は夜に隣の市へ行って用事を済ませている途中、季節はずれの花火を見た。そのなかから一枚をアップします。ささやかな誕生プレゼントになったのでしょうか。

この一年が恵み豊かなものでありますように。

日本語 四字熟語2007/11/10 23:47:29

試しにつけていた、終日つけられるコンタクトレンズをいったんはずして眼科医にみてもらった。痛みも違和感もなく、眼球に異常もない。いまあるのを使い切るのとあわせて、使い切った次回からはこのレンズでいくことに決めた。

そのあと、実生活での音量デシベルをチェックすることができる機械を借りてきた。補聴器を購入するといっても、やはり何度も調整を重ねたり、聞こえ具合を確かめたり。その繰りかえしが重要である。実生活上でどの程度音が聞こえているのかいないのか、状況や場面ごとに聞こえる音量、デシベルがどれくらいなのかのデータをとることによって、補聴器を購入するさいの参考になるだけではなく、どういう音や状況場面に合わせたらいいのかなど、単なる聴力に合わせるのではなく、生活場面や状況によって必要な聞こえ具合と、補聴器の設定をすることができる。
コンタクトも補聴器も言ってみれば、からだに着けるという意味ではどちらも問題なく着けられるものでなければならない。だからこそこうした、チェックが欠かせない。

さて。四字熟語である。

手話でどう表すだろうか。もし熟語の意味を尋ねられたら手話でどう答えるだろうか。そんなことを考えてみた。実に面白いテーマである。

容姿端麗 相思相愛 一病息災 一日千秋 竹馬の友 同病相憐 純情可憐 頑固一徹 三寒四温 馬耳東風 有言実行……。

漢字で表すこれらの熟語だが、たった四文字で簡潔かつ正確に表現できるということの不思議さ、すばらしさ。漢字といえば中国だけれど、論語などの古典でもこういった言葉があるらしい。
英語やドイツ語にはない、漢字という世界のもつすばらしさ。これを大事にしていきたいとあらためて思ったのである。

最近の若い人が使う表現のひとつに「わたしゎ」がある。初めてみたとき驚いたのはいうまでもない。いくら読んでもやっぱり寒気嫌悪感を感じてしまう。みなさんはどうだろうか。

四字熟語に戻るけれど、これらのなかには今の実生活で見聞きしたり経験体験できないものがあることにお気づきだろうか。
たとえば竹馬。
わたしはとうとう乗るどころか乗りこなすこともできないままだけれど、子どものころは竹馬で遊んだ友人が多かった。そして竹馬で遊ぶころから成人に至るまで長い付き合いをするほどの友人、人間関係をつくることが今の子どもたちにあるだろうか。ゲームの友……? う~ん。なんだかピンとこない。

今という時代をみると、モノはたくさんあって豊かに見えるけれど、こころがやせ細っている、あるいはからからに乾ききっているのではないだろうか。日本語も、朗読仲間と話してみて出るのは、今の歌の歌詞は表面だけ、こころまで訴えかけるような感じがしないというのである。昔の歌謡曲やフォークソングのような、こころからにじみ出る思いや気持ちがあった。だから10年20年と長く歌い継がれてきたというのである。

わたしの好きな歌のひとつに、海援隊の「思えば遠くへきたもんだ」がある。
これは、手話でやってみたい歌のひとつだ。

  踏切のそばに咲く コスモスの花揺らして
  貨物列車が走りすぎる そして夕日に消えていく

出だしから、情景がまぶたを閉じても浮かんでくる。

  筑後の流れに 小舟釣りする人の影
  川面に淡く 浮かんでた 風が吹くたび揺れていた

ここで九州は福岡の筑後川が舞台だというイメージができるだろう。しかし筑後川でなくても、川べりで釣りをしている場面でもいい。

言葉という文化を手がかりに考えてみる。
これからのち、もしわたしたちが生きられて高齢者になったとき、はたして日本語はどうなっているだろう。生き生きした、豊かな表現が感じられるのだろうか。