わたしたちは「害」ではない2007/09/01 00:00:00

ウエットティッシュのケースふたに書かれた点字
昔、わたしが働いていた前の職場では、記事や見出しなどの誤りを直すのが仕事内容のひとつだった。しかし学生時代から日本語だとか日本語文法だとかといった専門的なことについてはごく初歩的知識しか持ち合わせていない。
だが、どうしても納得できないことのひとつは、「障害者」という日本語だった。

大学時代社会福祉を学んでいた。そこで障碍について、WHOの3つの定義を学んだ記憶がある。分類すると次のとおりになる。
Impairment(機能障害) Disability(能力障害) Handicap(社会的不利)である。別に能力障害を「活動障害」、社会的不利を「参加障害」とする考え方もある。

わたしは耳が聞こえない中途難聴者であるので、わたしを例にしてみよう。

まず、最初の機能障害。もう何十年も前の話ゆえに検証のしようもないが、おそらくわたしが聞こえなくなったのははしかが原因であると思われる。このために聴覚の神経が損なわれて、聞こえなくなったのではないだろうか。つまり耳が聞こえないという障碍。次に能力障害は、耳が聞こえなくなったために音声や会話を聞き取ることができなくなる。最後の社会的不利は、音声や会話が聞こえなくなって、人間関係をスムーズにつくることができない、孤独感を味わう、駅やデパートや商店、電車内など、人の集まるところでは情報が得られないといったことであろう。

一般の辞書では「障害」が定着している。日本語の辞典を開くと、「障害」がある。だがわたしたち障碍者はけっして「害」ではない。「公害」「害虫」などと「害」の意味イメージから受けるマイナス、ネガティブな存在ではない。生きていく権利と価値があり、さきの3つの定義があっても人間としての尊厳がある。
そう思い、わたしは仕事ではしかたなく、「障害」を使っているが、この記事も含め個人で使う表記は「障碍」または「障がい」と書いている。パソコンの辞書にも「障碍」を登録している。

さらなる意識のバリアフリーを2007/09/01 00:58:24

言葉狩りという表現がある。
適切な例ではないかもしれないが、野球は、第2次世界大戦前までは普通に、アウト、セーフ、ストライクといった英語が使われていた。ところがアメリカとの戦争がはじまると、敵性言語だという理由で、こう言われていたという。ストライクは「よし1本」。ボールは「一つ」。セーフは「よし」……。

「障害者」表記を「障がい者」へ
http://www.toonippo.co.jp/news_too/nto2007/20070831091514.asp

「障害」は「障碍」(「障礙」)と表記すべきである (国立身体障害者リハビリテーションセンター広報誌 第226号)
http://www.rehab.go.jp/rehanews/japanese/No226/5_story.html

害がよくないからといって使わないというのはおかしい、という意見がある。害というイメージに反対するわたしであるが、どう考えても検討を重ねても、社会の中にはわたしの考えについて「言葉狩り」であるという人もいるだろう。

しかしやはり「障害」と書くことには、当事者として納得できない思いがある。
わたしが言いたいのは、言い換えたり新しい表現をつくったりすることも大事だが、障碍のある人とない人がともに理解し合える社会を築いていくことが大事であり、その姿勢において、当事者が不快だと思う言葉を使わないようにしてほしい、ということだ。障碍のない人たちの、社会意識変革と実践が求められる。
青森県社会福祉協議会では2006年10月開催の県社会福祉大会の資料ではじめて「障がい」と表記をしたそうだ。この記事を読んで、少しずつ変化が生まれはじめているのだろうか、と思いを新たにした。

先日買ったウエットティッシュのふたに点字がはられていた。洗剤やシャンプーなど、点字があるボトルもみられるようになった。
まだまだバリアフリーには遠い社会だけれど、さらなる、意識のバリアフリーが生まれることを望んでいる。わたしたちは「害」ではない。そう発言するわたしもまた、自分の尊厳と生きる価値を損なったり失ったりすることなく、自分のなかのバリアを壊すためにまた明日から歩き直そう。

ひとりじゃない すてきなことね いつまでも どこまでも2007/09/02 00:53:18

と書くと昔聴いた、アイドル歌手の歌を思い浮かべるかもしれない。惜しい! そんなことが言いたいのではない。

昨日は朗読のレッスン指導日と手話サークルの活動日。どちらも夏休み前の最後にあたる。加えて午前中に、ネームを入れてもらった、アメリカンフットボールのジャージを受け取りに行き、朗読のレッスンへ向かう途中に一日使い捨てコンタクトレンズとレンズの洗浄液を受け取るために移動した。

朗読、手話サークルともに笑顔で過ごすことができた。朗読では、台本を手に持っているために手話ができない。読み方やアクセントに注意を受け、当日スライドで上映したい写真を、朗読のどこに入れたいかも講師にお伝えした。レッスンが終わってから、講師が特別にひらいてくださるという指導日を決めてから、仲間と喫茶店でお茶を囲んで談笑。筆談を交えて、仲間の輪から外れたり疎外感を感じたりすることなく、楽しいひとときだった。

手話サークルもそう。
各自の、夏ばて防止方法についての手話による発表を聴いたり読み取ったりして、なるほどと思ったり驚いたり。終わってから、朗読についての話はしなかったけれど、将来のことなど話が弾んだ。

他人のこころや思いは、自分では、どうすることもどうしなさいとも言えない。
わたしを嫌っている人がいれば、いい目で見てくれる人もいる。

人の目線を気にするよりは、自分が何ものをも恐れずに顔をあげて天をみつめていれば十分。

まだまだやらなければならないことやりたいことがたくさんある。

ささいな喜び2007/09/03 22:58:28

先週末は涼しさを感じ、ようやく酷暑(ある友人は「激暑」と表現した)から秋になったかと思いきや、今日は一転してまた暑い日中に戻った。夜に入って暑さは感じられなくなったが、気温差が激しい今日このごろ。旅行を目前にしていることもあり、体調管理には注意したい。

今日から始まるはずだった手話ソングの練習が急きょ中止になって、やや拍子抜けの夕方。残念だったけれど、代わりにというほどではないがすてきな出会いがあった。

ひとつはいつも手話ソングの練習などで利用している、東京都身体障害者福祉会館で、たまにお目にかかるろう者の男性と初めてゆっくり会話を交わしたのである。彼について個人的なことを何も知らないが、ろう学校で手話が禁止されていた時代を知っており、いまは手話が普通にあたりまえに使えるし手話の認知も広がっているから楽しいと話す。わたしの手話についても「なかなかうまい」とほめてくださった。

次に、参政権委員会でもお世話になった、要約筆記の方とも館内で立ち話ながら、会話を交わした。久しぶりにお会いしたこともあって、楽しかったことはいうまでもない。

もうひとつは、東京都身体障害者福祉会館へ行くときに利用している地下鉄駅で、手話のできるスタッフと初めて会話を交わしたこと。場所柄とはいえ、手話のできるスタッフがいるとこちらも楽しい。

これらのできごとに共通しているのは、会話を交わした喜びを強く感じたということ。職場ではあまり手話を使うことがない。わたししか手話のできる人がいないからだが、こうしたなにげない出会いと会話が、わたしのこころをほぐしてくれる。そして明日からの生きる希望につながっていく。

写真は、職場でいつもお茶をのむために使っているボトルと、ペットボトルに付いていたはし。はしのケースも購入した。

なにげないことだけれど、こういった小さなことから環境を、地球をまもる取り組みにつなげたい。

明日もまた2007/09/04 23:12:56

10日ほど前に撮影した都内は快晴。暑さが厳しかった。台風9号が接近しているからだろう、今日は夜に入って雨まじりの天気。

明日もまた、いい日でありますように。

すなおに ありのままに2007/09/05 23:45:01

旅行前のあわただしいなか、荷造りと持っていくものの最終チェックをすすめている。原稿台本はもちろんのこと、記録用にカメラも持っていくし、できれば現地でできたらと、卓球用具にウエアも。聖書も忘れてはいけない。
台風が接近しているが、出発日には風雨も過ぎることだろう。

ややこしく難しく考えるから、だめなのかもしれない。
シンプルに。そしてこう考える。どんなにきついこと苦しいことがあったとしても、いのちをとられることはない。そう、いのちをとりあげられるのは神さまだけ。神さまが「もう、十分ではないか。よくやった」とおっしゃられたときが、わたしが召されるときなのだろう。まだそれに値するだけのことを、なにひとつしていないのだから。

賛美歌を思い出す。「あるがまま われを」。

      あるがまま われを 血をもて あがない
      イエス 招きたもう  みもとに われゆく

すなおにありのままに。

自分を大事に、自分を好きになることなくして、どうして他人を、まして異性を愛せるだろう。自分を大事にするとは、自分にあたえられた恵みを大事にしていくということだ。そして他者、異性にも同様に神さまからいただいた恵みがある。それを大事にしていく。

わたしにとっては――。朗読も手話も、聞こえない耳と普通に話せる口も。ありのままにいただいた恵みだから。
人がなにをどう言おうと、見ている人は見ているし、見ていない人は見ていない。

おおらかにゆったり、自分のコントロールできない部分は神さまとイエス・キリストにおまかせして。

自然の猛威を無視することはできない2007/09/06 23:09:39

やれやれ。

というのは台風9号が接近して帰りの地下鉄車内は満員の蒸し暑い状態だった。ワイシャツにネクタイ。上着はさすがに着たいとは思わない蒸し暑さ。じっとがまんしているのがやっと。
それにしても。みんなホントによくがまんしているよね。

あちこちで崖崩れや道路の寸断など災害が起きている。
今日会社の仲間と話したのだけれど、彼が言うには、発生数こそ少ないけれど、これだけ強い台風は、やっぱりおかしいと。地球温暖化、と安易には言いたくないけれど、自然の猛威を無視することはできない。

台風が過ぎ去って2007/09/07 23:09:09

昨晩からけさにかけて、東京はとんでもない台風の影響をうけた。
これは出かける途中に撮影したなかのひとこま。ほかにも駅構内で捨てられたビニール傘があったり、地下鉄も地上を走る部分は強風にあおられるからと、一時運転を取りやめたりしたほどだ。

いよいよ明日から朗読の取材旅行に出かける。
無事に帰ってこれるかどうか不安がいっぱいだが、不安を神さまにおまかせしつつ、朗読とこの旅行の計画を与えてくださった神さまにこころから感謝をささげたい。

明日からの旅行でどんな出会いがありどんな学びが得られるだろう。
期待と不安が交差している。

平和な空に2007/09/08 21:42:55

一年ぶりの成田空港。今回はいつもと違い、第2ターミナルへ。いつもはスター・アライアンスを利用するため第1ターミナルなのだが。
成田を出発して日本時間で0時30分ごろに機内から上空を撮影してみた。幾条もの飛行機雲が行き交っている。地上からはめったにみることのできない光景だ。

62年前の同じ空を、ドイツとアメリカ・イギリスの戦闘機・爆撃機が飛び交い、激しい空中戦を繰り広げ、大空に散っていったいのちもあったに違いない。
いまは欧州では戦争がない。この平和な空が世界にひろがりいつまでも保つことを。62年前に散っていった若き多くのいのちが天において安らかに憩うことを、祈らずにはいられない。

環境問題のとりくみに納得2007/09/09 23:46:25

フランクフルトで一泊。
フランクフルトは12年前のポーランド旅行で、ポーランドからフランクフルトへ向かう飛行機が遅延して、乗る予定だったルフトハンザ航空機が荷物を載せたまま出発してしまい8時間近く足止めされた記憶がある。ちなみに帰りの飛行機はJALだった。今回往復ともにJALを利用するのは偶然か。
ホテルは駅への距離、環境、ともに申し分ない。
一泊だからそんなにあちこちを回ることができず、せいぜいが駅構内にあるショップやレストランをのぞくだけ。しかしそこで韓国人経営のおすしショップを発見。やっぱり日本食を食べないと落ち着かない。

ドイツはエコロジー、環境問題に熱心な国だと聞くが、フランクフルト駅で見た、ゴミ箱ひとつに「なるほど」と思わされた。
紙・ガラス・食べ残し。それらを分別して捨てなさい、とひとつの箱に区分けされているのである。なんでもないことかもしれないが、日本ではみかけない箱だ。