こんなにおいしいとは…… 恐るべし、カレーの世界2007/04/01 22:53:12

ホウレンソウとチキンのカレー
昨日のブログでコメントをいただいた。誰も読んでいる人はいないだろうと1年間続けてきたのだけれど、まさかこうして読んでくださる方がいらっしゃるとは、1年間夢にも思わなかったことだ。ありがたいことと、こころから深く感謝とお礼を申し上げます。ほんとうにありがとうございました。

さて本題に。
昨日混雑のなかをかき分けるようにして訪れた「六本木ミッドタウン」。そのなかにあるカレーレストラン「デリー」で、こんなのを食べてきました。

ホウレンソウとチキンの入った、タグカレーというものです。チキンは分かるけれど、……ホウレンソウ?

出てきたのは緑色のルーに、チキンが入ったもの。写真ではわかりにくいかも。どろっとした緑色のルーを見て、一瞬ひいてしまった(^_^;)。
いただいてみたら、これがとても口に合う。辛さがそんなにないから、女性にもおすすめです。わたし個人としては辛い方がいいのですが。
ホウレンソウとカレーライスか。う~ん。まいった! カレーライスには目がないので、自分でもつくりたいしスパイスやルーにはこだわるほうだけれど、こんなにおいしいとは……。

今度調べて、自分でも挑戦してみよう!
恐るべし、カレーの世界(^o^)。

「なるほど」考2007/04/01 23:29:14

日付を見たら今日は4月1日。エープリルフール。しまった! 今日はまだ誰にもうそをついていなかったんだ(笑)。
といってもいまからじゃもう遅すぎます。

それは冗談としてさておき、タイトルのテーマは「コミュニケーション」。

手話で「なるほど」というとき、利き手の親指をあごの下につけて、親指と人差し指を「ム」の形にして人差し指の指先を左右に振る動きがこの表現です。ためしにやってみてください。

ところが、これは微妙なものだなと気づかされます。
なんでしょう。

親しい仲であるとかお互いをよく分かっている関係の人ならば問題ないし、話がすすむのですが、相手によっては、また文化が異なる人を相手にした場合、へたをすると見下しているとか偉そうにしているなどと見られてしまいかねないのです。

自分ではそんなつもりがなくても、相手にしてみたら「なによ」と思われて誤解されたりした経験はありませんか?

聞き上手になりたい、相手のこころに寄り添う会話がしたいとあらためて強く感じます。
「なるほど」は、相手の話を受け止め「聞いているよ」ということを伝えるに最適な言葉ですが、一歩間違えると、相手の話を遮断したり一方的に受け止めていると思われるどころか、大きな態度でいると思われかねないのです。

「なるほど」という一見簡単な返事ですませるのではなく、分からなかったら分からないと正直正確に伝えること。ここまでは分かりました、ここから先は分からなかった、と伝えること。これも聞き上手になるために大事なことでしょう。

手話でも聞こえる人相手の口会話でも、本当に難しいものですね。
いくつになっても何年たっても、修業が欠かせません。

明日もまた歩こう2007/04/02 23:28:04

昨日写真店へ、デジタルカメラの画像をCD-Rに入れてほしいと注文したのだが、時間切れで受け取りに行けず、今日仕事が終わってから取りに行ってきた。帰りは写真店のある文京区根津から、バス停まで歩いて、バスから上野に移動。買い物を済ませてからようやく家についたばかりだ。

先月、地域の難聴者の仲間と一緒に行った場所へ、リベンジのつもりで行ってみたら、きれいな桜が咲いていた。桜を愛でながら食事や歓談に興じている人たちばかり。曇りだったけれど、寒さはそれほどでもなく、気温よりもたくさんの桜を見ることができたのが一番の収穫といっていいかもしれない。

眠る前に、顔に無香料化粧品を肌につけている。
トシをとってだんだん肌のつやがなくなってきたなと感じる。昨年、教会のある人から「お肌が荒れているよ」といわれて、すすめられたのがこの化粧品だ。男性だからといっても肌のメンテナンスがいらないということはないだろう。
その化粧品の詰め替えのため、じょうろを使って入れようとしたのだけれど、容器の注ぎ口のふたをあけなかったばかりに、漏らしてしまった。もったいない。

今日は新入社員にとって初めての「出勤日」。
かくいうわたしも18年前はうぶな(?)社会人だった。希望も不安もたくさんあった。そのなかを生き抜いていまがある。

つらいこと苦しいことはたくさんあったし、これからもあるだろうけれど、昨日より今日、今日より明日がいい日であることを。自分がよりよい生をおくることができると信じて。明日もまた歩こう。

「東京砂漠」2007/04/03 22:37:17

すでに何度も書いた、六本木ミッドタウン。
みんなカメラのアングルを下から見上げて、桜とミッドタウンのビルを撮影していました。トロントのCNタワーも汐留のビルも新宿の住友ビルも下からのアングルが、迫力を感じさせます。

しかし、と思う。
東京に住んでいて、「東京砂漠」という歌があったけれど、まさに東京は砂漠化していないかな。便利なんだけど、こころが温かくないような。みんな満員電車のなかで黙りこくって、耳にヘッドホンやイヤホンを入れて音楽を聴いているか、人に見られないようにわざわざ本を隠すようにして読む。

都会は便利だけれど、どこかぎすぎすしているような気がする。

もうすぐ散りゆく桜。桜は物言わず、その時が来ると咲いては散っていく。
それに比べて、物言うことができて、いろいろな知恵も力もあるニンゲンはどうだろう。

静かに散っていく桜を見ながら、過ぎ来し方とこれからの行く末を思った夜だった。

みぞれが降ったって?2007/04/04 23:34:50

桜の木
今日は一日寒い天気。夕方、会社を出る前に窓を見たらどしゃ降りの雨が。

みぞれが降ったという報道があったけれど、もう4月でしょう。いったいどうしたのだろう、気候がおかしくなったのか。

卓球練習のため、スポーツセンターへ行く途中に、夕暮れの公園で桜を撮影してみた。電線が入ってしまったのが残念だけれど、どうだろうか。色的には気に入っています。

練習ではまだまだ力が足りないなと実感した。
思いっきり打つということと、力任せにラケットを振り回すということは別物。どこかで書いたけれど、使っているラケットは強打向きの重いものだけに、力に任せては打てるものも打てない。

ベートーベンのピアノ曲、有名な「月光ソナタ」などを聴くと、力任せではなく、流れるような曲にしばし耳を奪われてしまいそうな気持ちになる。

力任せではなく、流れるように。ゆったり。これは卓球だけではなく実生活でもいえることなのかもしれない。

午前0時のライトダウン2007/04/05 23:05:28

桜はまだ咲いているけれども、今週いっぱいが見納めだろうと思う。

東京は都会だけに、いろんな伝説があるらしい。
東京タワーには「ライトダウン伝説」があるという。「午前0時ちょうどに消灯される、東京タワーのライトアップが消える瞬間を一緒に見つめたカップルは永遠の幸せを手に入れる」というのがそれだ。

昔々わたしが働いていた職場は、深夜の2時3時に帰宅するのはあたりまえ。地下鉄もないからどうやって帰ったかというと、会社からのハイヤーで贈ってもらうのだ。深夜の高速道路を走って、ルートによってはたまに東京タワーが視界に入る道路を走ることがある。ふむふむ。当然午前0時を過ぎているけれど、そういう話もロマンチックではあるね。

まだ恋人はいないし、そういうカップルもいないけれど。
いつか午前0時のライトダウンを見ながら、永遠の愛を誓える日がくるといいね。

5カ月後に迫った、2度目の朗読舞台は、まだ何を演じるか決まっていない。
しかし、案としてはO・ヘンリーの「最後の一葉」にしようかと思っている。あるいは7月のアメリカンフットボールワールドカップの話にするか。NFL観戦旅行ができたら、それもいいかもしれないけれど、9月だからねぇ。「最後の一葉」なら、最低限、男性女性それぞれ一人ずつで演じられる。

映画のチケットを購入した。例の「バベル」と「ドレスデン 運命の日」。
前者は言葉や言語が異なるために分かりあえない人類の愚かさを。後者は戦争の愚かさを描いている。
じっくり見ごたえがあると思う。

ゆったり充実した2007/04/06 23:50:29

今週はいろんなことがあったけれど、気持ちは前向き、そして希望をしっかり抱けた。

仕事途中に、会社内の健康管理部で、うつ病をわずらっていたころによくカウンセリングをうけたお医者さんと久しぶりに会った。数日前はやはりいろいろお話をしたこともある別のお医者さんと顔を合わせて、しばしの立ち話。

からだもだんだんうつ病を患う前の状態に戻ってきた。若さは戻ってこないけれど、ゆったり落ち着いた気持ちでいられる。
人と出会い、影響を受け、そして自分がどう生きていきたいか。人生の終わりがいつかはやってくる。そのときに残された人たちからどんな言葉をかけられるだろう。もちろんそれはわたしには分からないけれど、今生きている一瞬の過ごしようによって、いい方にも悪いほうにもなっていく。

人を愛したい、愛されたいと思うなら、自分を愛していなければ。
ナルシストとは違う。一回限りの有限な存在、有限の生をもつ者であることを自覚していればこそ、他者に対してもそのようにかけがえのない存在であるゆえに、愛することができるはずだ。

よく生きたと言える人生でありたい。
神さまが一番。周囲や愛する人たちが2番。3番目にわたし。

ゆったりと気持ちを落ち着かせて、楽しい話ができた2007/04/07 00:50:25

午前中に、東京都港区三田の東京都身体障害者福祉会館へ、フライングハンズで使っている歌詞ボードやCD/MDプレーヤーの保管延長をお願いしたあと、歌詞ボードの端に、曲名を書いたインデックスシールをつくりはる作業をする。というのも、いちいち歌詞ボードを広げては曲を探すのが面倒このうえない。限られた時間で効率よく作業をすすめるために、曲のタイトルを書いたインデックスをはっておけば、すぐに見つかるだろうというわけ。
終わってから今度は朗読のレッスンのため新宿へ移動した。まだ朗読の仲間が何をやるか分からないけれど、わたしはO・ヘンリー(本名William Sydney PORTER 1862-1910)の「The Last Leaf」(邦題「最後の一葉」)か、昨年からベストセラーになり話題を集めた「千の風になって」をやりたいと思っている。

そのあと夜に入って手話サークル。
総会といつものように居酒屋でわいわい話を交わした。
うん。ゆったりと気持ちを落ち着かせて、楽しい話ができた。今週に入ってまた気持ちが楽になったからだね。

地球に優しく 人に優しく2007/04/08 01:04:57

ボトルドリンクとリユースでつくられたボールペン
昨日の朝刊新聞報道で、とても気になる記事があった。
国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)がまとめた報告書によれば、地球温暖化の影響は全地球に及ぶという。21世紀を3年代に分けてIPCC第1・第2作業部会が作成した報告書をもとにした影響予測では……。

2020年代(気温上昇幅 0.5~1.2度程度)
数億人が水不足による被害にさらされる。サンゴ礁の白化現象が広がる。生物の生息域が変化し、森林火災の危険性が増す。洪水と暴風雨の被害が増える。北米では河川の流量が減り、現在のような水需要を満たせなくなる。

2050年代(気温上昇幅 1.0~3.0度程度)
最大30%の生物の絶滅の危険性が高まる。ほとんどのサンゴ礁が白化する。低緯度地域で、いくつかの穀物の生産量が減少する一方、中・高緯度地域では増加する傾向になる

2080年代(気温上昇幅 1.3~5.3度程度)
2~3℃強上昇したとき
毎年数百人、洪水被害にあう人が増える可能性が出てくる。健康被害の増加で医療機関に過大な負担が生じる。
3.5℃以上上昇したとき
地球上の至るところで相当数の生き物が絶滅する。低緯度地域で、すべての穀物の生産量が減る。中・高緯度地域でいくつかの地域でも減産になる。

この報告書を見てみなさんはどう思われるだろうか。
わたしは2020年代以降はともかく、当然、2050年代以降も生きているわけはないのでそのころ、確かめようがない。しかし昨年からのさまざまな気象異常を考えてみると、この報告書は的中するかもしれないと思う。
記事では最貧国と富める先進国のあいだですでに地球環境の悪化とその原因について抜き差しならぬ対立が起きているとある。さらには貧しい国同士でも対立があるとも。

しかしもはやそんな対立をしている余裕はないのかもしれない。

わたしもささやかながら、地球環境について考えるために取り組んでみた。
フットボールチームのロゴが入ったボトル。これらは卓球やダンスの練習前にいつも使っている。洗うときも石けんを使わずにできるだけ水だけで洗うようにしている。せっけんによる環境汚染も無視できない。
ドリンクボトルのそばにある、3本のペン。これらは実は、木材の再利用でつくられたものだ。写真では白っぽく見えるが、実はクリーム色のこれは、プロ野球の選手が使う木製バットの原材料、アオダモでつくられている。試合や練習で折れたバット、バット製造業者が「バットには向かない」と判断して使われなかったアオダモでつくられている。アオダモは生長するまで80~100年もかかる、長い時間を要する樹木だ。ゆえに大切に大事に育てなければならない。茶色のペンは、ワインの樽の廃材からつくられている。

もっとなすべきことがあるだろうと思う。たとえば電気製品のコンセントをこまめに抜いて、いらない電力を減らすなど。
ともあれ、「地球に優しく 人に優しく」
できることからはじめていきたい。

千の風になって2007/04/09 00:07:04

昨日はイースター。十字架の上で死なれたイエス・キリストがよみがえられた。その復活を祝う日だ。

礼拝後に、信徒の方と一緒に、教会のある街につくられた墓地を訪れた。この信徒のご遺族が眠りについておられる。
墓地について車から降りて、美しい花を咲かせ色づいている桜の木に目を奪われてシャッターを押したのが、これ。といってももう、大半の桜は散ってしまい、葉桜か、咲いていてもかたまって咲いているものばかりだ。

千の風になって。
昨年から話題になり、年末の紅白歌合戦でも歌われたこの曲を思い出す。

わたしもだんだん、死を実感として感じられる年齢に近づいてきた。もし明日死んだら? もし明日、目が覚めることなく生を終えたなら?
クリスチャンだから、死を考えない思わない日はない。そして死ぬということにこわさを覚えるとともに、死ぬ瞬間までの時間をどう生きたかを大事にしていくこと、という思いもある。
お墓はいらない。散骨してほしいというのがわたしの希望だ。そう、桜のように千の風のように、姿は見えないけれど、どこかで死んだあともなお、生きているような。

周りにどんな人間でありどんな人生を生きたと評してほしいだろう。葬儀の時にどんな話がされるのかわたしは当然聞こえないし分からないけれど、つまらないやつだったとは言われたくないなと、正直に思う。

しかし、いのちをかけて。大切な何かを愛し、よく生きたと言えるように。
死は、生きた姿の総決算なのだ。よりよく生きてきたそれまでの歩みが如実に現れると思う。
いつか神さまのみもとに召されるとき、真理子さんと再会できるとき。
少なくとも、恥ずかしくない、よく生きてきたねと言われたい。だから、今日も明日も、精いっぱい生きよう。