気持ちよく2006/11/02 23:01:16

早いものだとつくづく思う。今年もあとわずか、11月になるとは。

先日の手話ソングダンスのレッスン前にメンバーと話したのだけれど、今年はいろんなことがありすぎて、めまぐるしい一年だったと思う。あまりにも信じられないことばかりだった。

まもなくまたベートーベンの第9がきこえてくる。そして賛美歌も。

苦しいことつらいことばかり続いたようなこの2006年だったけれど、その一年がわたしを大きく成長させてくれたのかもしれない。

自分を中心にするのではなく周りを。第一にするのは神さまでありイエス・キリスト。あとから必要なものはついてくる。

そう思ったら、少しだけ気持ちが晴れた。毎日も気持ちよくおくることができる。

少々疲れた2006/11/04 23:50:25

今日は教会バザーのため、朝10時から動き回って少々疲れた。ディナーを食べたのは日付が変わる1時間前のこと。このブログはそのあとに書いた。

とても疲れて、ディナーを食べるのが精いっぱい。
おやすみなさい。

悲しみを乗り越えて2006/11/06 23:01:56

今日は本田美奈子さんの一周忌。あれからもう1年が過ぎたのだね。

本田美奈子さんの遺作「Amazing Grace」を、フライングハンズのレッスンで高村真理子さん、メンバーとともに聴いたのを覚えている。そのときはまさか半年後に高村さんもいなくなるとは思わなかった。神さまのみもとでふたりで歌っているのだろうか。

さて話を変えよう。

漢字。外国人からみると不思議な文字にみえるらしい。ある日本を訪れた外国人は「この、絵のような文字を覚えたい」と言って日本語に興味を抱いたという。なるほど、絵のような、か。
たしかに漢字は物のすがたやかたちがもとになっている文字もある。あらためて言われてみると、気づかされることが多い。異文化からみたわたしたちの文化を、謙虚な目でみつめることもまた、大事なことだろう。

いろんな漢字があり、いろいろな単語があるわけだけれど、最近わたしがいいなと思った漢字は……。「躾」。

身に美しいと書いて、躾と読む。
なにも親や周囲から教わることだけがしつけではないと思う。
周りから自分がどう見られているか、自分は周りにどう見てほしいのか。
それを意識することもまた、しつけではないだろうか。

と書いて、わが身も含めてあまりにも、周囲との関係を考えていない、自分勝手なふるまいをすることにいくつか思い当たる。席をとってわが物顔でいる。大声で話をする。ところかまわず騒ぐ。

隗よりはじめよという。
まず自分から、周りと自分をみつめて、どう見られたいか見られているかを、意識していこう。

昨日も今日も明日も希望を抱いて2006/11/08 22:26:11

医療問題をみるとき一番こわいのは、病んでいる人を前にして、人間としての感情や理性がマヒしてしまうこと。自分の目的のため、利益獲得のために目の前にいる患者さんに対して、尊敬だとかいたわりだとか、ごくあたりまえの感情が失われてしまうことだ。

第2次世界大戦終結50年の節目に、わたしが訪れたポーランドのアウシュビッツ強制収容所でみた、ガス殺に使われたチクロンBの缶や、犠牲者の頭髪や皮膚からつくられたバッグなどは、おぞましい人間の所業の愚かさと恐ろしさをまざまざとみせつけた。

愛媛県宇和島市の病院で、病気の腎臓を移植に使っていたとされる問題がニュースで何度も報道されている。どこまで事実を伝えているかという真実性があるが、伝えられている報道をみると、この病院の医師は使えるものであればなんでもいい、という姿勢だったようだ。厚生労働大臣からも、「非常に異常じゃないかと思う」という感想が出ているほどだ。

功名心がなかったか。自分の発想やアイデアの正当性を主張したいがために人間としてのモラルを捨ててしまったのではないか。なによりも、病気に侵されている臓器を移植するという治療法、さらには臓器提供者(ドナー)と移植患者との関係について、カルテの続き柄欄が空白だった例が5件あったなどと伝えられているところをみると、人体実験とみられてもおかしくないのではないかという疑問を感じる。

わたしは医療について詳しい者ではないが、合法的に毒性もあり得る薬物を投与でき、メスを持って切ったり縫合したりという手術もできる、医師という
職業には、ほかの職業以上に倫理観や人生観が深く問われると思う。
一瞬の判断ミスや思いこみが、患者のからだやこころを深く傷つけ、取り返しのつかない事態を招きかねない。航空機のパイロットやバスのドライバー、地下鉄や列車の運転士が多くの乗客乗員のいのちを乗せて無事に目的地まで到着できるようにする責任以上に、重要である。なぜなら、これらパイロットやドライバーは無事に到着するのがあたりまえであるのに対して、医師は治るか治らないかという極限のたたかいをしている患者さんを、不安や苦しみから解放させ、治るという希望を治ったという喜びを抱かせるために存在しているからだ。しかしこの世にはまだまだ不治の病がたくさんある。それでも多くの患者さんとその家族は治るという希望を失わずに、今日もたたかっているのだ。

もし報道されていることが事実だとしたら、とんでもない事件であると思うし、この医師にはたして医師である前に人間としての倫理観はどうなっているのかと問いたい。

昨日も今日も明日も、病気とたたかい、治るという希望を確信に変えようとしている患者さんやその家族をふみにじるような行為は、けっしてあってはならない。

こんなありさまでは2006/11/10 22:02:15

半年間の長いシーズンを終えて、2年ぶりにひらかれた日米野球。春のWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で日本が初優勝という快挙と、メジャーリーグを中心にアメリカナショナルチームが負けたという事実。ベースボールの発祥国としてのプライドをかけて、やってきたメジャーリーガー。

対する日本は、そのWBCでの快挙と、シーズン中の選手組合、球団オーナー、リーグ運営機構側との話し合いで「日米野球は今年をもって終わりにしたい」と言ってきた。WBCで勝ったのだから日本は世界一のレベルだと言いたいのだろうし、シーズン後の疲れをとりたいという理由もある。

しかしどうだったか。
日本プロ野球は5戦戦って全敗。これは第2次世界大戦前の、ベーブ・ルースらが来日したとき以来だという。日米野球前に、25人の選手が出場の打診を断ったという。対するメジャーは単独チームではなく、オールスタークラスもいれば年俸6000万円クラスの選手もいればさまざまななかで、シーズン中と同じ、いやそれ以上に気迫のあるプレー、真剣勝負のプレーを見せてくれた。

長いシーズン後であることを理由にするのも、けがなどをおそれるのもわからないではない。けがをして来シーズンの契約や選手寿命にかかわっては困る。だがそれはメジャーも同じ。今回来日した選手の中には162試合のレギュラーシーズンを終えて、つい2週間前までプレーオフで戦っていた選手もいる。レギュラーシーズンが終わって長くて1カ月の間隔をおいて実戦感覚を取り戻すのはたいへんだ。単独チームではなくオールスターだから、コンビネーションもままならない。それでも彼らは本気で日本に来た。5戦全部勝つつもりだと言っていた。観光気分はほとんどなかったといっていい。例年なら養護施設などの訪問もスケジュールに組まれていたけれど、それもなし。京都や秋葉原を回っただけ。たしかに高額の出場料や契約やスポンサーなどのメリットはあるだろう。それでも、本気で戦った彼らを誰が批判できよう。

いったいどちらがプロであり本気であっただろう。

くどいようだけれど、シーズン後であること、故障をおそれるのもわからないではない。休みたいという気持ちもわかる。しかし辞退した25人の中には秋のキャンプに出ている選手もいた。キャンプもいいが、本気で来ているメジャーと対戦する機会なんてそうそうめったにあるものではない。その彼らに対しても、また高いお金を出して見に来ているファンに対しても失礼ではないか。

日米野球でメジャーと対戦して、その後に海を渡った選手もいる。
いくら海外旅行が手軽になり、BSやCSでライブ中継を楽しめるようになったと言っても、やはり生で見ることのできる機会はそうそうない。
いろいろ思いながら、いったい日本とアメリカの、どちらがプロ意識を持ち、ファンを大事にしているだろう。

来年もまた、何人かの日本人選手がメジャーリーグに挑戦する。
今年のようなありさまでは「なんだ日本の野球はつまらない」としか思われず、さらには衰退していく危ぐを覚える。

いったい春のあの熱狂はなんだったのだろう。

生きて 簡単にいのちを捨てるな。2006/11/12 22:12:00

いじめと自殺のニュースがまた相次ぐ。先日は文部科学大臣あてに「いじめられている。自殺をする」と実行日を記した内容の投書が送られてきた。そこに書かれていたのは昨日、11日。いまのところ自殺が出たというニュースはないが、送られてきた投書の投函郵便消印に「豊」の文字があったため、全国の「豊」に該当する地域を含め自治体、学校がピリピリした雰囲気になっている。

本当に児童・生徒の文章だろうか。字体は稚拙だが文面は大人の作文とも読める。
しかし、ことの真偽ではなく、こんな投書がニュースになるような社会が大きな問題であるとわたしは思う。

死。いつかはわたしも死んでいくし死ななければならない。
この投書事件をみてわたしはいくつかのことを思い起こす。

まず、第2次世界大戦で「特攻」として米軍艦に体当たりしていったパイロットを思う。わたしも図書館や書店で当時の米軍従軍記者や兵士が艦上から撮影した、まさに特攻機が突っ込んでいく瞬間、突っ込み大きな炎を吹き上げる瞬間の写真を何度も見た。いったいあの瞬間、パイロットはなにを思い考えたろう。生きたいと思っただろう。できればトラブルで引き返したいとも思ったかもしれない。でも命令であり、祖国のためにと思って死んでいかなければならなかった。反対に狙われた米軍側にも目を転じよう。特攻攻撃当初は何がなんだかわからなかった。しかし2度3度と同じような攻撃が行われるにつれて、自殺というか自爆というか、自分が死んでもかまわないという強い意志のもとに行われた攻撃だった。そのために死ななければならない米軍兵士。彼らも炎に包まれ焼けていく死体と異臭を目の当たりにして恐れただろう。先日、ニューヨーク湾に保存係留されている、何度も日本海軍の特攻攻撃で標的とされた旧米海軍空母「イントレピッド」が修復されるというニュースで、当時特攻攻撃を経験した元海軍兵士の話を読んだ。「カミカゼは狂信的な行為だし、同僚を殺されて憎しみもあった。だが、彼らも自分がやるべきことをやったのだろう」と元海軍兵士のひとりは語る。「賛同するわけではないが、なぜやったのかは我々も理解できる」。当時は怒りにふるえたが、いまは特攻を遂行した日本海軍パイロットの行為を理解できると、元海軍兵士の一人は語った。

もうひとつは死刑。
わたしはクリスチャンとして死刑に反対であるのだが、死刑囚となり執行が言い渡されるその時までの恐怖。ある本で読んだが、拘置所の刑務官が死刑囚の収容されている房をまわる、朝9時から11時までの時間が一番恐ろしく感じられるという。なぜなら番号で呼び出され執行を告げられるからだ。
いつ執行されるかは当日にならないとわからない。しかも朝食事を終えて房に戻ってまもなくだという。恐怖、生きたいと思う。しかし死ななければならない。執行前に刑務官と会う。執行されたあとはもう会うことも会話をすることもできない。

このふたつは極限の、言ってみれば普通の生活を営んでいるあいだはあり得ないことであるかもしれない。しかしわたしたちはいつかは誰もが死ななければならないし死と向かい合わなければならない。

はじめに書いた、文部科学大臣あてに送られてきたという投書には、実行日が書かれていたという。
書いた本人はどんな思いで書いたのだろう。思いつめてのことだろう。しかし実行日を書いたとしても、それまでの時間、迷いためらわなかっただろうか。

わたしは思う。簡単にいのちを捨てるなと。
もっと生きたくても生きられない状況におかれたら、どうするのだ。学校でのクラスメートのいじめは大きなことだけれど社会に出たらもっとたいへんないじめや不合理に直面する。いじめはわたしだってつらく思い出したくもない経験だ。しかしそれをへていまがある。

簡単にいのちを捨てるな。

40年以上経っても色あせない本2006/11/14 23:30:35

いま、教会の信徒兄弟からお借りした本をずっと読み続けている。
「意味の探究 生きるということ」。裏表紙には日本基督教団出版部とあり、価格は250円。

実はこの本は、いまから44年前の1962年8月25日に出版された本である。著者は同志社大学神学部教授だった土居真俊氏。手にしているのは1965年6月25日の5版発行だ。
しかし読み続けているとけっして古くさいどころか色あせない。もちろん表紙もページも黄ばんでいるのだけれど、書かれている内容が44年たったいまもなお、読む人のこころに強く訴えかけてくるのだ。

安保条約や東西冷戦、共産主義など、書かれた時代を思い起こさせるくだりは随所にみられる。
しかしそれでもなお、筆者の語るところはいまの時代でも通じる。

こういうくだりがある。
「クリスチャンになるということは、古い生活の終点に、完成品として立つことではありません。新しい生活の出発点に、未完成品として立たされるのです。これから無限の成長が始まるのです」(12ページ、「逆説」)

わたしたちは人生を通して何かを得たいと念願する。それは出世であったり社会的評価であったり高給であったり、いろいろだろう。
しかし信仰者としてはそのような世俗的な評価ではなく、いかに生きたかが問われる。
人生は完成品になることではなく、未完成品として立たされそこから新しい生活に向けて歩いていく。完成させてくださるのは神さまなのだ、と。

自殺、いじめというニュースが今日も相次いだ。
デジタル世代、0か1かという極端な思考回路の親とその子ども、というコメントもあった。仮にそうだとしても、デジタルというよりは完成品になろう、完成品をつくろうとしているから、他者の痛みを自分のこととしてうけとめられなくなっている、自分の直面する危機を乗り越えるまえに答えを出そうとしているのではないだろうか。

わたしは自分をみつめて、まだまだ未完成品だと強く思う。
だからこそ完成に向かってじっくりゆっくり歩いていくしかない、そんな気がするのだ。

クリスマスが近づき2006/11/16 00:08:47

街を歩いて早くもクリスマスイルミネーションが灯っている。まだ12月まで半月あるのに。

毎年毎年、月日の経つ早さに嘆息してきたが、今年ほど実感させられた年はないかもしれない。

クリスマスというとにぎやかでおめでたいというイメージがあるけれど、それは商業主義に染まったもの。本当のクリスマスは華やかでもにぎやかでもない。むしろ重苦しい、つらいものなのだ。

教会でも主イエス・キリストの降誕を祝う。
にぎやかさよりは、わたしたちの歩み、罪といったことを味わいかみしめてクリスマスを迎えたい。

いじめは絶対に許されない2006/11/18 23:02:23

大阪・富田林でおきた少女の自殺事件は、校長が「いじめが原因である」と認めたことで、いじめが原因であると判明した。長崎で同級生に「失神ゲーム」と称して暴力をふるっていた3人が逮捕された。

暴力といじめは何があっても許されない行為である。
これははっきりさせておかなければならないしはっきりさせておく必要がある。

わたしの利用する地下鉄でもとうとう、というかいよいよ女性専用車両が始まる。「逆性差別だ」という男性側の声や、利用する女性客からの「マナーが悪い」という声がある一方、確かに混雑する満員電車で女性客が迷惑行為で苦しむ現実も無視できない。迷惑行為のためにPTSDなど、心理的後遺症などがあることも否定できない。

「もしわたしの妻が被害者だったらどうだろう」と考えれば、とてもそんな行為に走ることはできない。
いじめをした加害者側はいまどんな心境だろう。ひとりのいのちが失われたという現実を直視してほしい。しかし加害者はたぶんその重みに気づいていないか、目を閉じ耳をふさぎ、気づこうとしないかのどちらかだろう。

自殺してもことは解決しない。
死にたいと思うほどの苦しみを乗り越えて、強くなる。当事者からすれば「なによ、他人事だと思って」といわれるだろう。しかし自分が強くなれば、いじめる側の、周囲にはその非人間的行為がとても恥ずかしくみっともない行為にみえる。
なにもからだを鍛えるとか逆に暴力に走るとか、力を身につけるとかいったことではない。
人間として気高く、誇りを持って生きること。障がいがあっても背が低くても、君はたったひとりかけがえのない存在なのだということを知ること。それがひいては自分に自信をもち、自分を好きになることにつながっていく。自分を好きになっていれば、いつかその自分を好きになってくれる人が現れる。もし現れなかったとしても悲しむ必要はない。気高く誇りを持って生きていけば、恋人や妻が現れなかったとしても、一筋の光のように、すばらしい人生を残したことになるのだから。

あらためて繰り返す。
暴力といじめは何があっても許されない行為である。最低の恥ずべき恥ずかしい行為である。

思いっきり走り回りたいね2006/11/20 23:11:47

子どものころ、小学校の校庭は土のグラウンドだった。無理もない、都内の小学校だし、緑の芝生など考えられなかった。ひざをすりむいたり転んだりするのはあたりまえの時代だった。

時は流れていま。
地球温暖化、都市部のヒートアイランド現象をふまえて、杉並区の小学校をモデルケースに、グラウンドを芝生に張り替えようという動きがある、と先日の新聞に記事があった。芝生に張り替えることで高温がやわらぐ、裸足で走り回ることで運動能力の向上やストレスが解放される、などメリットはある。しかし芝生のメンテナンスや虫害といった問題も考える必要があるだろう。

アメリカを回って空港近郊の都市上空から見るのは、緑の豊かなグラウンドがたくさんあることだ。フットボールフィールド、グリッドアイアンと呼ばれるようにきれいなラインがひかれたフィールド。ベースボールのグラウンドが2面も3面もつくられている。
たしかに土地の広さは比べものにならないのだけれど、それにしてもあれほど緑が豊かなグラウンドやフィールドをみせられると、単に競技のレベル以前に、環境がまったく違いすぎることを感じさせられる。あんな緑の上で思いっきり走り回れたら、それだけでも十分楽しいに違いない。ボールを投げたり打ったりキャッチしたりできたらなおさらだろう。

子どもたちには思いっきりけがを恐れずに走ることのできる環境をつくってあげたい。わたしたちができなかったぶん、子どもに楽しさを味わい感じてほしい。