もののあはれ2006/04/02 00:24:42

桜と小鳥
 というとなんだか高校時代に学んだ古典を思い出す。
 もののあはれと書いたけれど、自然の移り変わり、そして自然の営みのなんとすばらしいことか。

 また桜をスケッチ撮影してきた。
 何枚か撮ったあとで上を見たら、小鳥が桜の花びらをついばんで何枚かの花びらが散っていた。
 小鳥にとってはえさになるのだろう。そしてついばんだ残りの花びらが散っていく。
 もちろん小鳥だけではなく、風に吹かれて散ってしまうものもある。
 
 そうやって自然は移り変わり、また来年、美しい花を咲かせわたしたちのこころをなごませてくれる。

 自然をみじかに感じながら、また新しい日をよりよく生きたいと思う。
 もののあはれとは、言ってみればそういう移り変わりの中で時間の尺度としては一瞬にすぎないなかで、いかによりよく「いま」を生きていくかということではないか。そのなかにわたしたちははかなさや美しさを感じるのだろう。

ちょっと疲れたかな2006/04/04 23:49:08

 新しい年度が始まった。
 新入社員だとか新入生だとか希望に満ちていることだと思う。

 わたしも希望をもって歩き出した。
 しかしちょっと疲れたかな。
 ネットでかつて受けたことのあるうつ病テストをみたら軽い抑うつだと出た。

 一番いいのは無理をしないこと。
 ゆったりすることだろうか。

 とはいえ、希望をなくしたわけではないから、不安がることもない。

 いまは波のあるときだと思って、ゆっくり過ごすことにしている。

自分を信じて 自分を好きになれば2006/04/08 23:50:31

 今日は新しい朗読のスタート。
 その前に朗読仲間と少しだけ、10月に予定されているという朗読劇について話し合ってみた。
 はじめ考えたのは、浅田次郎さんの小説だったのだけど、吉永小百合さんの原爆詩をやろうかと思う。手話でやれないかと思ったけれど、朗読仲間がいうには「新木はいい声をしているのだから手話はいらない。今回は声だけで勝負してごらん」というのである。

 ううむ、声で勝負か。

 その言葉を聞いてから、ふっと力が抜けたような気がする。

 そうなんだ。自分には声という武器があって、それがわたしの持ち味なのだから、気にすることはないのだ。
 そして聞こえないけれど普通に話せる。それはすばらしい宝だろう。
 
 自分を大事にすること、自分を好きになり愛していくこと。
 それを忘れなければ、きっといつか、自分の人生は花開くときがくるし、いまはいないけれども、わたしに必要な人も舞台もきっと与えられる出会いがある。

 自分を信じて 自分を好きになれば。

ミドルエイジ・クライシス2006/04/09 21:36:03

 桜も散りましたね。卒業式を思い出すのですが、わたしはどうも「贈る言葉」をイメージしてしまいます。

 ミドルエイジ・クライシスという言葉があります。
 中年期の、とくに男性に起こりやすいこととして、うつ病やさまざまな社会不適応の問題があると言われます。
 無理もない。
 組織の中では中間管理職の人もいるでしょう。家庭では子育てどころか思春期のお子さんもなかにはいるかもしれない。
 いろんな葛藤や苦悩が押し寄せてくる時期です。
 不惑というけれど、40歳を前後に、厄年というのもあたっているのかもしれません。

 あまり気にしない方がいいと思いつつ、ミドルエイジ・クライシスなのかな(ちょっと待った。わたしは人の上に立つ立場でも家庭をもっているわけでもないけれど)。

 さぼってみる? う~ん、これが一番苦手です。

 さてこのごろ思うこと。
 聞き上手になりたい。そんなことを考えています。
 たしかに聞くということはものすごく忍耐力を要求されることです。聞こえないわたしにとってどれほどたいへんなことか。
 その力をつけるには、まず自分をゆるし受け入れていくこと。言い換えれば自分をありのまま認めていくことでしょう。
 
 まずは「自然体」ですね。自然体でいれば、どこかで誰かがわたしをみていてくれるかもしれません。人の眼を期待も気にもしないで自然体でいれば、きっと幸せとの出会いがかならずあるでしょう。

自信を持ってプレーしよう2006/04/13 00:17:45

 日付が変わってしまったけれど、昨日卓球の練習に行ってきた。いつもの木曜日が予定が入ったために出られず、一日前倒ししたのだ。

 スマッシュがなかなかできない。
 力任せに打ってしまう悪い癖があるだけではなく、打ち方そのものがなっていない。ひじを折りたたむように打つべきなのに肩で打っている。これではいくらいい球を打ってもスマッシュにならない。

 10球に1回はなんとかなる。でもこれではね。

 悪い癖をしっかり自覚して直すこと。
 できるのだから自信を持ってプレーしよう。

ゆっくり生きよう2006/04/13 23:29:30

 今日は職場の同僚と仕事の打ち上げ。楽しい話が続いた。
 
 ゆっくりゆったり生きようと思う。
 あせらずに自分を信じて自分のできることを精いっぱいやっていこう。

 1年後の自分を見ることは大事。けれどそれに引きずられても困る。
 100年後、自分がどう生きてきたかをみてもらえることも見つめよう。

 自分を信じていけばきっと、いいことがある。
 ちゃんと神さまは導いてくださるのだから。

どんな境遇状況下にあってもなお2006/04/16 23:42:25

 今日は教会のイースター礼拝を休んで障害者団体の集まりに参加した。
 教会の行事と重なることがいままでもあったしこれからもあるだろう。
 遊びでない限り(もっともわたしは遊びで礼拝を休むつもりは全くないけれど)礼拝に出られずともわたしは、与えられた場で神さまを思い、祈り、み言葉を思う。手話ソングダンスのステージであろうと卓球の試合であろうと、神さまからいただいた、生かされている場なのだから。

 雨の日は傘を忘れることがしょっちゅう。そそっかしいというかみっともないというか。
 で、今日の障害者団体の集まりから帰る途中、駅のベンチであやうく傘を忘れるところだった。気づいてベンチへ戻って傘を取ってから地下鉄に駆け込んだのだけど、ベンチへ振り返ってみたら初老の男性が手話で「気をつけなさいよ」と言ってくださった。
 補聴器をみてわたしが中途難聴だとわかったのだろう。
 
 こういう何気ない会話があると、ホッとする。

 その前にレンタルCDショップで、故本田美奈子さんの遺作「心を込めて」を、朗読のBGMに使う別のCDとあわせて注文した。
 
 亡くなってはや5カ月になる。
 会うことはないけれど、CDから流れる透きとおった美しい声を聞くたび、悲しみと勇気をうけとっている。
 人は何らかの生きる意味や目標を与えられて生き生かされている。
 本田さんにとっては歌うことであり病の中にあってもなお、希望を失わずに歌うことが生きる意味だったのだろう。

 人は生きる意味があり、ひとつもむだないのちはない。
 そしてその目標に向かって生きるとき、すばらしいなにかをのこすことができるのだ。どんな境遇状況下にあってもなお、勇気と希望を失わずに。

言葉の力2006/04/18 23:34:52

 朗読、手話、手話ソングダンス。
 わたしが取り組み、これからも続けたいと強く願っているものだ。
 これらに共通しているものがある。なんだろうか。

 答えからいうと、「言葉」である。

 聞こえる人ばかりの中で唯一難聴者であるわたしが目標としたのは、手話と組み合わせた朗読である。もちろん声を使った演技は重要だ。声だけでどんな場面なのか伝わらなければならない。難しさとともに、言葉のもつ力をまざまざと感じさせる。
 手話、手話ソングダンスは、聞こえない人たちのコミュニケーションである手話を手がかりに、表現するという手段だ。聞こえる人とはまた違った表現力を求められる。ステージ上でははっきりわかりやすく、リズミカルに表現していかなければならない。これもまた難しい。

 しかし共通しているのは言葉の力であり、無力なようにみえてその実、大きな力を持っているということだ。

 人を傷つけることも、生かし、生かされることもある、わたしたちがふだん何気なく使っている「言葉」。
 日本語では「言の葉」というけれど、たとえば木の枝から切り取られた一枚の葉のように小さな存在かもしれない。しかしその葉が人の心を動かし癒し、慰め励ます。反対に傷つけ殺しおとしめる。
 言の葉。
 聞こえないわたしだけれど普通に話せる。そして言葉で表現する力をいただいた。
 その恵みを大事に大切に、正しい目的に用いるようでありたい。

いまを大事に ゆったりゆっくり生きていこう2006/04/20 23:29:55

 今日は久しぶりの卓球コーチズ・デー。しかも改装工事の終わった、福祉会館内の卓球場。
 練習前の準備運動もそこそこにいきなり練習。これがよかったのかどうかはともかく、からだを動かしたことでコーチのご指導をうけるにあたって動きやすかった。
 
 課題。
 スピードボールは接近すれば打てるのだけど、下がって打つときまだ、ボールをみていない。しっかりボールをみること、目線を切らないこと。

 話は変わって。
 
 桜が散るに合わせたわけではないだろうけれど、ここ数日かなり、気持ちがゆったりしてきた。

 仕事もそうだけれど、いまの自分を大事にすること。
 言い換えれば、目の前にある状況を精いっぱい取り組むことはもちろんだし、取り組まなければならないのだけど、周りの評価や状況を気にしないことだろうと思う。
 どこかに書いたけれど、1年後のことを汲々とするのではなく、100年後の自分(生きているわけないけれど)というか、100年後、自分はどうありたいかということを考えることも大事ではないだろうか。

 比較したりされたりはこの世にいるかぎりしかたない。
 けれど自分しかいないのだ、誰も代わってくれるわけではないし、代わることはできない。おのおのが自分に与えられた状況を生きていくしかない。
 わたしはいまの状況に不満がないわけではないけれど、一方でよかったと思う。

 このさきなにがあるかわからない。
 けれどなにがあっても動じない、ゆったりゆっくり生きていこう。
 
 神さまはどこかでわたしをみておられるのだから。

風邪をひいて(>.<)2006/04/22 22:50:17

 風邪をひいてしまい、数日前からさんざんだったのが、今日はお昼まで横になって休んでいた。季節の変わり目だからだろう、体調をこじらせてはもともこない、と、日中に予定していた卓球練習をやめた。

 で、お弁当屋さんでごはんと麻婆豆腐、鶏肉の唐揚げを買って温めた。
 動けないわけではないので、ゆっくり休めば治るでしょう。

 風邪にはご注意!