サヨナラだけが人生さ2014/11/15 21:28:56

いま朗読で学んでいるのは『幸福が遠すぎたら』。
この小説のモチーフというか川底に流れているのは、中国は唐代に詠まれたという「勧酒」という詩だ。作者は于武陵と伝えられている。


         勸君金屈卮,
         滿酌不須辭。
         花發多風雨,
         人生足別離


井伏鱒二さんの名訳が知られているが、寺山修司さんの、訳ではないが、この詩を解釈した詩も有名だ。

井伏さんが「サヨナラダケガ人生ダ」と訳し、寺山さんは「サヨナラだけが人生ならば、また来る春は何だろう」と書いている。

海援隊の曲に「漂泊浪漫」というのがある。武田鉄矢さんは井伏さんの訳にひかれてこの曲の詞を書いた、ときいたことがある。
 
  せめて今夜はこの盃に 苦い酒をば なみなみついで
  そして 一息に飲み干そう ほらアンタの情けも飲み干そう

朗読の先生は海援隊のこの曲をご存じないのだけど、若いころはわたしもこの詩の意味はもちろん曲の意味もわかっていなかった。
だんだん歳を重ねてきて経験も失敗も積んで、家族が出来てから、サヨナラということについて考えるようになった。
サヨナラ。
もう会えないという思いと、また会えるよねという思いと。どちらも、人生への応援という意味がある点では同じだろう。
一瞬一瞬を大事にしながら、妻とわたし、かけがえのない家族がいて、目標もある。

サヨナラはいつかは誰にもやって来る。
だからこそもう会えないという思いと、また会えるよねという思いと、2つの思いを忘れずに、歩みを続けていきたいものだ。

手話表現上の工夫もいれて2014/06/03 23:19:53

仕事を終えて今日はわたしだけが手話学習会に足を運んできた。今日から仲間より一足早い、朗読の手話表現にとりかかる。まず台本を手話通訳士と一緒に検討しながらすすめていく。

基本的には原作本通りに進めていくというスタンスだが、手話表現を考えるとき、文章通りのままでは、聴者はよくても、ろう者難聴者がわかるとは限らない。会話部分で、だれが語ったのかわからない文体のばあいはそうだ。ろう者や難聴者のなかには原作を知らない人もいるだろう。
そこで、三浦さんの原作を少しだけ変えて、会話部分で語っている人物がだれなのかをわかりやすくするために手を加えた。

できれば今週土曜日の朗読のレッスン時に完成原稿として提出しておきたい。

これから秋、9月に向けて3カ月間の取り組みが始まる。

洗礼を受けて30年目に読む『氷点』2014/05/19 23:21:24

今年9月27日、下北沢でひらかれる第9回コスモス朗読会。年初にあちこちで公言したり書いたりしたように、今年は『氷点』を取り上げることにした。三浦綾子さんの作品を取り上げるのは、『塩狩峠』以来2回目。
その仮台本ができあがった。手話通訳士と検討を重ねていって、できれば来月の朗読のレッスンで講師に台本を提出したいと思う。

1946年、北海道旭川。医師、辻口啓造は妻、夏枝と村井靖夫が密会中に3歳の娘、ルリ子が殺されてしまった。ルリ子の代わりに女の子がほしいとねだる妻への妬みから、わが子を殺した犯人の子として、陽子は辻口家に引き取られた。それは啓造にとっては「汝の敵を愛せよ」という聖書の言葉を実践するという思いでもあったが、のちのちに大きな、とりかえしのつかない事態を招く……。

ここで何度も出てくる「罪」。
たしかにわたしたちは犯罪を犯していない。でも人のこころは親しいもの同士であっても見抜く見通すことはできない。啓造が「汝の敵を愛せよ」という聖人君子のような気持ちでいたのは表向きとしても、内心は夏枝を苦しめたいという思いがあった。夏枝は陽子がルリ子を殺した佐石の子だと信じ思い込んで陽子をいじめ苦しませる。陽子は、どんなにいじめられても苦しめられても、まっすぐに生きていきたいと自らに言い聞かせていたが、自分の出生の事実を知ったのちは実母、恵子と義母、夏枝を疎むようになる。血のつながらない陽子の兄、徹は両親の不和から陽子の出生の秘密を知って、陽子に異性としての思いを寄せる……。

読み続けていくと、とても気持ちが重くなってくる。だがそれは自分のなかにもある「罪」という問題から目をそらすことになる。
人間とは何か、こう生きていきたいと思いながら、奥深いところに潜む生まれながらにしてもつ罪と向かい合っていかなくてはならないということ。
犯罪ではない、それとは違う、他人を憎むとかねたむとか疎むとか、自分を他者と比較したがったり優越感を抱いたり。

洗礼を受けて30年目に読むことで、あらためて信仰を問い直されている。いや、30年目で、愛する家族がいる節目の年だからこそ、この本を朗読で読みなさいと言われているのかもしれない。

三浦文学を貫くまなざし2014/05/16 23:03:11

今年のコスモス朗読会のテキストを『氷点』と決めて、実際に旭川の三浦綾子記念文学館を再々訪問することにしている。
以前にも『塩狩峠』のときに長野政雄さんの事故現場やそのそばにある三浦綾子さんの駄菓子店(こちらも記念品や作品などが展示されている)を訪れたが、今年は『氷点』から50年目という節目の年にあたるため、多くの三浦さんのファンが訪れるだろう。

三浦さんの文学については多くの人が評論をしたり書いたりしているが、プロテスタントという信仰とともに、若いころは教師をしていて、軍国主義を教えていた、そのことへの厳しいまなざしが三浦さんの生涯から片時も離れることはなかった。

情緒的な、ナルシシズムのような、しかしプロセスをすっ飛ばして決めていこうという今の安倍政権のやり方は、とても危なっかしいし、行きつく先はどんどん国民を「戦争ができる国」へ引っ張っていこうとしているのではないか。とても恐ろしい。

こんなとき三浦さんだったらどう思っただろう。

目標ができたのだから2014/05/12 23:00:54

昨日は妻とお茶の水へ行ってきたわけだが、急な暑さでからだがついていかず、帰ってきてから妻にマッサージをしてもらうありさま。今日はいくぶん涼しさが感じられてだるいということはなかったのがうれしい。

今年に入って、9月の「コスモス朗読会」で何を読もうかと思っていたところ、発表から50年になる、三浦綾子さんのデビュー作『氷点』を思い出して読み始めた。気が重いテーマだったが、福井旅行などをはさんで今日、やっと「ここを読んでみたい」というところを決めた。まだ台本にする段階ではなく、これから手話通訳士先生と相談するなどしてすすめていくことになるが、朗読は自分が本当に読みたいと思うところがみつかれば、おおよそ舞台の8割まではできたといっていいのかもしれない。問題はわたしが手話をつけて語るということ。日本語対応手話ではなく日本手話で語りたいというのが、第3回からこだわっているテーマである。難しいのは百も承知。だからこそ、やりがいがある。

このままいくかどうかわからないが、まずは目標ができたのだから、しっかり取り組んでいくこと。

手話を使おうという人が増えて手話が広まってほしい2014/04/04 22:42:01

「歯科医院で使う手話読本 やってみよう! 手話で簡単コミュニケーション」
仕事の合間に会社内の歯科医で30分間の治療を受けてきた。
治療の前に、手が空いていた歯科医スタッフらにある本を紹介してみた。

「歯科医院で使う手話読本 やってみよう! 手話で簡単コミュニケーション」

わたしの手元には何冊かの手話関連本や手話単語辞典などがある。紹介したこの本は、どちらかといえば医療従事者向けの手話テキストだ。編集は歯ブラシや歯みがき粉はじめ、洗剤などで知られる「ライオン」の財団法人 ライオン歯科衛生研究所。発行は一般財団法人 口腔保健協会。さすがにお値段は4000円と、ちょっとこの手の本にしては高い。2000年に出された本だが、2012年の3月で第4刷にもなっている。

とてもわかりやすい。
歯医者にかかるときに医師が問診したり歯の具合を教えたりするには、どうしても専門的な言葉が出てくる。歯は小さいから説明しづらい部分もあるだろう。
けれどたとえば「歯肉」という場合、左手で歯を指さし、あるいはこぶしを握って歯のかたちをつくり、右手で左腕の手首からひじのあいだを表す。左腕の手首からひじのあいだが歯の下、肉部分を表す。

で、今日の治療前にこの本をもっていってスタッフに簡単な手話を教えた。そうしたらさっそく「おつかれさまでした」を表してくれた。

職場でも手話を広めたいと思う。でもなかなか難しい。なぜならわたしは話せるから、筆談で済んでしまう部分もある。ろうに近い意識を持っているわたしとしてはジレンマがある。
とはいえ、徐々にでいいから、こういう本を広めたり自分で手話を使うことで、妻や手話通訳士、サークル以外に手話を使おうという人が増えていって手話が広まってほしいとこころから願う。

無言の抗議に喜びたい。しかし気をつけなくては2014/02/28 23:49:41

4月並みの暖かさだった今日から一転、明日はまた降雪があるかもしれないという。

おととい『アンネの日記』が都内や神奈川県の図書館で破られた事件について書いたが、その後も図書館ではなく書店で破られた本が見つかったという。

しかしこれでめげるようなやわな社会ではない。
イスラエル大使館から、杉並区の事件にあった図書館に『アンネ』関係の図書が送られるというし、一般からも本を送るという動きが出ている。

事件の背後に思想が絡んでいるのか、単独でやったのか複数でやったのか、容疑者がまだ逮捕されていないのでなんともいいようがないが、いずれにしても「人間の本質は善だ」とアンネが書いたように、良心をもった人たちによって、こんな卑劣な行動を起こした人たちへの無言の抗議がおこっていることを喜びたい。
しかし安心するにはまだ早い。
いつどこでまたこんな卑劣な、ひとのこころを傷つけ、憎しみをあおる事件が起きるかもしれない。
警戒を怠らないように。

これはまさに暴力だ2014/02/26 00:18:31

『アンネの日記』日本語訳、英語版など わたしの蔵書
「コスモス朗読会」舞台で読む(もちろん手話をつけて!)、そのための取材としてアムステルダムのアンネ・フランク・ハウスと、隠れ家でアンネが聴いたであろう、鐘の音が鳴る西教会も訪れた。
アンネが書いた『アンネの日記』。
東京都内と神奈川県内の公立図書館にある『アンネの日記』を含む、関連図書や第2次世界大戦中にユダヤ人にパスポートを発行した外交官の故杉原千畝さんに関する本などが、破られているのが発見された。

先日、仕事上のこともあって、自宅近くの区立図書館に図書を借りるための登録を済ませてきた。注意書きをもらってそのなかに「図書館の蔵書を毀損することは厳に慎んでください」とあった。

この国ではヨーロッパでみられたような反ユダヤ主義は露骨にあらわれていない。あらわれていないが、昔からそれに近い主張をする人たちがいたしいまもいる。そのなかには根拠や裏付けがない、また聞きかじりでしかないようなものもある。
だがわたしは主張がなんであれ、図書を破ったり毀損したりするような行動を認めることも受け入れることもできないし、このような行動を起こした人たちももちろん受け入れることはできない。

どんな立場も主張をするのもかまわない。この国はいちおう、どんな立場も主張もしていい「自由」がある。
だがなんでもあり、ではない。好き勝手と自由は似ているようで異なる。
自由であることの裏返しとして誰に対して主張するのか、が問われている。

図書館はある特定の人たちだけのものではない。公立私立問わず、オープン、多くの人に開かれたものである。その公共施設にあるものを破ったり壊したりすることはとりもなおさず、そこに通おうとしている、利用しようとしている人たちの権利をも破りこわしているということなのだ。
仮にユダヤ人が嫌いだ、『アンネの日記』やアンネの思いが嫌いだとしても、そこで多くの人が手にするであろう書物を破るというのは、自分の主張ではなく、多くの人たちに対する暴力である。たしかに血を流してはいない。傷つけたわけでもない。だがたしかに、図書館を利用している人たちに、図書を破るというかたちで、図書を読んだり利用したりする自由と権利を奪ったのだ。これはまさに暴力だ。

こういう事件がおきてまねをする人もいるかもしれない。
はっきり言っておく。
気に入らないからといって暴力で主張するのは、自由な社会を否定することなのだ。
暴力による、自由と、多様な立場の否定を認めていくことは、そのままアンネが生きた時代につながっていく。
わたしは今回の事件を絶対に認めること受け入れることはできない。行動や主張を認めること受け入れることはなおさらできない。

いまという時代の難しさ2014/02/13 23:08:55

いま朗読の台本を決めるために『氷点』上下巻を読むかたわら、カルト宗教について書かれたブックレットを読んでいる。

『「健全な信仰」と「カルト化した信仰」』(ウィリアム・ウッド著 いのちのことば社刊」)

読み進めていってなるほど、とひざを打ちたくなるようなくだりがいくつもあるが、とくに感じるのは、自分に対する自信とまでは言わないにしても、自分を受けれる肯定する、ありのままに受け入れることの難しい、現代という時代ゆえにカルト宗教がはびこりやすいのだろう、ということだ。

「自分はこれでいい」が「あなたはだめだ」というか、「自分はだめ」で「あなたもだめ」だと見下すか。
そうではなく「自分はありのままでいい」から「あなたもありのままでいい」という自他肯定というのが現代人に欠けている。そういう自分を前向きに自然体で受け入れられるなら、カルトから狙われることはない。自分にも他者にも寛容、肯定的な姿勢でいられないから、他者に自分を依存してしまうか、宗教家など自分より指導的な人に自分をゆだねてしまう。そして自分を見失ったまま、彼ら指導者の言いなりのままになってしまう。

わたしは聴こえない。でも不幸だとは思わない。
聴こえないことは不便だけれど不幸だとは思わない。
だから特別ないやしや奇跡などはほしくないし望みもしない。

それはどこからくるのだろう。
わたしにとってはキリストを信じる信仰。そしてキリストはわたしを支配するのではなく、言いなりになるように仕向けるのでもなく、キリストにつながるからこそ生き生きとありのままに生きなさい、と語りかけてくださる。

これからもいろんなことがあるだろうけれど、おだやかにゆったりと自他肯定的な視野と態度を失わないようにいたい。

発表から50年目2014/01/07 23:05:50

今年9月27日(土)に開催予定の、第9回コスモス朗読会。
昨年もどこかで書いたり人前で言ったりしたけれど、今年は三浦綾子さんの作品を久しぶりに取り上げる。『氷点』を使うと決めている。

今年2014年は『氷点』が発表されてちょうど50年目にあたる。
そのこともあってこの作品を読むことに決めたのだが、文庫版で上下2冊にもなる長編。しかも50年前の言葉遣いが出てくるなど、なかなか難しい。だが難しいからこそやり終えたときになにかが生まれるのではないだろうか。

どこを使うか、手話訳も含めてテキストを提出するのは結婚一周年を過ぎた、5月ごろの予定だ。