デリカシーとは、小さなやさしさのことだ2017/03/18 23:46:00

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ううむ、まだまだ腹痛が治らない。

さて今日は朗読のレッスン、2016年度最終日。テキストは奥田英朗著「ワーキングマザー」(集英社文庫『ガール』所収)。

発表会はいつものように、からだの向きを変えたり声のトーンや台本を読むときに間をとったり、いろいろ工夫してみた。聴こえる人と同じにはできない耳が聞こえないぶん、違うところでいろいろやっていかないと。

この作品のなかにこういうくだりがある。
「弱い側はささいなことで傷つく。弱者救済を声高に叫ぶつもりはなくても、気づいてくれるとうれしい。デリカシーとは、小さなやさしさのことだ」
「子育てしてるとね、ときどき、こっちは大役を果たしてるんだっていう傲慢な気持ちになるの。ベビーカーを押してそのへんを歩いている主婦がそうでしょ。守られて当然って顔をしているのが大勢いる」

発表会の前週、つまり今月4日のことだ。
このくだりをきっかけに、講師から、受講生を前に、わたしの耳のこと、実際の耳の聞こえ具合、補聴器をつけた時と外した時の違い、がんになったあとのこと、ヘルプカードをつけて街を歩くようになってからのこと。いろいろわたしは質問を受けた。そのひとつひとつに丁寧に答えていくなかで、あるテーマが出た。つまり弱者救済のようでいて実は傲慢な社会、ということだった。

わたしもヘルプカードをつけているけど、これみよがしになにかしてもらいたいとは思わない。守られて当然という顔をするのもいやだ。しかし現実には、ヘルプカードを見ても気に留めないどころかなんの反応もしない人までいる。
「ワーキングマザー」はバツイチで子どもを育てている女性社員と、独身女性の仕事上の対立を描いているようでいて、立場は違っていても合わせ鏡のような、女性の置かれた状況、さらには独身既婚子どもいるなしに関係なく、お互いへの思いやりということの大切さを描いている。

結婚して女性の大変さを感じるとともに女性同士の怖さも妻から教えてもらったこともある。
同じようにろうであり話せてがん患者であるからこそ、守られて当然って顔をしないように気をつけつつ、弱者であることを伝えていく、弱者でも生きる価値生きる意味があることを、いろんな活動を通して伝えていく。朗読もその一つ。

難しい問題であるけど、挑戦しないことには風穴はあかないだけでなく、あとに続く人たちの道もひらけない。
弱者だからこそ小さなやさしさを忘れずに生きていきたいと思う。