ヘルプカードをつけて2017/02/01 23:06:16

今日から2月。早いものである。

ヘルプマークが「JIS」に 五輪に向け普及に弾み
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201702/CK2017020102000126.html

今晩の手話サークル千代田一麦会でも、会終了後にある会員から「このカードは知っているよ。デザインがかわいいね」と言われた。
しかしまだまだ周知が足りないと感じるし、電車やバスに乗ってこのカードをみても気づかないのか知らないのか、援助をしてくれる人があまりいない。

ふと思う。
このカードの存在意義というか目的は、この記事にもあるように「外見からは障害があると分かりにくい人が周囲に援助を求めやすい」ということが第一である。けっして交通機関を利用するときに座席を得るためのものでもないし、また印籠のようにかざすものでもない。けれどろう者でありがん患者となって、なおさら「外見からは障害があると分かりにくい」ためにいろいろな困難がある。そういう人がこの社会、同じ空間にいるのだということを知ってもらいたいということ。
もうひとつ。
ヘルプカードの周知を知らせるポスターやシールが車窓や車内広告に張られているのをよく見るようになった。
それ自体はいいことなのだけど、なぜつり革が黄色の座席付近や優先席スペース付近だけに掲示貼付するのだろう。
一般商業広告とのバランスや兼ね合いもあるのだろうが、不自然ではないだろうか?

大事なことはひとつだけ。
困っている人に手を差し伸べる。そういう社会になってほしいということだけだ。

権利の対立 しかし2017/02/02 23:06:18

今日もギター教室に行ってきた。たいへんだったけど進歩もあったレッスン。

さてけさ、こんな記事があった。

音楽教室から著作権料 JASRAC徴収方針、9000カ所対象 教室側反発
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12776935.html

これに対してさっそく、ネット上でこんな記事も出ている。

JASRACが音楽教室からも著作権使用料を徴収しようとする法的根拠は何か?
http://bylines.news.yahoo.co.jp/kuriharakiyoshi/20170202-00067263/

正直に言うなら、コンサートで演奏するわけではなく(いつかはコンサートでやってみたいと思う気持ちもあるが、ここではそれが本題ではない)レッスンで好きな音楽を学びたい、というただそれだけのことなのに、著作権使用料を言われるのは腑に落ちないどころか違和感が大きい。

下の記事にあるように「不特定多数」とみるか「特定少数」とみるかが議論になるのかもしれない。
受講生と講師、という関係で学ぶことであり、入会手続きを経た上でのレッスンである。特定少数と見るのが妥当ではないだろうか。

誰もが自由に音楽を楽しめる権利と、著作権保護や使用料を求める権利の対立はある程度は理解できる。
しかし自由に楽しめる学ぶというわたしたち受講生の立場を奪いかねない、著作権使用料の徴収などという話は、かえって人々から音楽を遠ざけてしまうものになりかねないのではないか、という懸念を抱く。

みなさんはどうお考えだろうか?

文化は誰のもの?2017/02/03 22:56:42

昨日も書いた、JASRACの音楽教室からの著作権料徴収の記事。
案の定というか当然というかネット上では大きな話題になっている。
そして当然のなりゆきとして、音楽教室側がこの著作権料徴収に対して、反対団体を結成したことが伝えられている。

音楽教室側が反対団体結成 JASRACの著作権料徴収
http://digital.asahi.com/articles/ASK233VTPK23UCLV005.html?iref=sp_cultop_feature5_list_n

わたしもレッスンの受講生として、また聴こえないなりに音楽を愛し文化として守っていきたいと思う一人として、音楽教室側が立ち上げた反対団体に協力支持したい。

いったいぜんたい、音楽も含めて文化は誰のものだろう?
もちろん違法ダウンロードや無断コピーやそれらをネットに出すといった、権利侵害はあってはならない。
しかし、音楽を弾きたい、好きな歌手やアーティストの曲を覚えたい弾いてみたいという素朴な気持ちに、お金を取るというのはどういうものなのだろう。

結局、文化の衰退につながるだけではなく、豊かな創造の世界を壊すことにならないか。

そんなものもあるんだね2017/02/04 22:37:14

もう2月と思ったら、節分はとっくに終わった。
子どものころに何回か豆まきをやったことがあるけど、最近は豆まきではなく、太巻すしを節分に食べると縁起がいい、という恵方巻というのがあるらしい。大阪や滋賀県など関西が発祥だとも。

販売拡大の目的もあって、2000年ごろからコンビニでこうした太巻寿司が売られるようになってきた。とはいえ、もとは関西の文化。東京ではなかなか広まらないのだろうか、わたしが知る限り、身近なところで恵方(今年は北北西だとか)に向かって目をつぶったり笑ったりしながら太巻を食べているのを見たことがない。

まあ、まもなくやってくるバレンタインデーもそうだし、秋にはハロウィーンもある。いろいろ商売につなげていくのは、あってもいいと思う。

目くじら立てることなく、そんなものもあるんだねと思いつつ、楽しんでいこう。

第51回スーパーボウル@テキサス州ヒューストン2017/02/05 22:12:21

まもなくあす朝、2016年度のNFLチャンピオンを決める、第51回スーパーボウルが開催される。今年はテキサス州ヒューストン、NRGスタジアム。NFCチャンピオン アトランタ・ファルコンズ対AFCチャンピオン ニューイングランド・ペイトリオッツのカード。

わがオークランド・レイダーズの憎きライバルでもある、ニューイングランド・ペイトリオッツの敗戦を期待したいから、アトランタを応援する。実はそのアトランタ。1995年のメジャーリーグベースボール、ワールドシリーズでアトランタ・ブレーブスがワールドチャンピオンになったほかは、NFLファルコンズ、NBAホークス、いずれもリーグチャンピオンになったことがない。

加えてファルコンズのQB、マット・ライアンは、51回を数えるスーパーボウル史上、初めて背番号2をつけたQBということになるようだ。2013年2月3日の第47回大会に出場したジョー・フラッコ(ボルティモア・レイブンズ)の5番がQBとしては最も若い数字だ。
http://www.pro-football-reference.com/super-bowl/

ともかくもあすに迫ったスーパーボウル。
どんな展開になるか。戦前予想は僅差の好勝負になるのではないかという。さて。

男性も女性もなく2017/02/06 22:12:45

これだって女性も男性も使えるし
うーん。仕事中は大したことはなかったのが、終わって用事のため外出しているあいだにおなかに痛みを覚えて、いまも少し痛む。

「女子力」という言葉が、ここ数年あちこちで聞かれるようになった。
たとえば裁縫がうまいとかタイミングよく気配りができるとか、炊事が上手だとか。男性を立てるのがいい女性だ、という声も昔から根強い。

でもねえ。
それって男性の思い込み、女性と男性で役割を決める押しつけではないか? 男性も手先の器用な人がいるし、プロレベルでなくても料理が上手い人もいる。男性女性の区別はないのではないか?

あらゆる物事に対し、男性より女性の方が「自分事」として、アイデンティティーに問いかけて論じる傾向があるのでは? という問いに、それならわたしのようにろうでありながら話せて、がん患者になった。それを、アイデンティティーを問うのは女性に近い発想なのか?

「~力」という言葉自体に、なんというのかな、思い込みやこうあるべきだという圧力を感じるのはわたしだけだろうか?
そのうち「障がい力」なんていうヘンな言葉が生まれたりして。
ああ、いやだいやだねえ。

要は男性も女性もなく、ひとりの人間として生きていく、男性も女性も、お互いの違いやできることできないことを見分けて、それを非難したり否定したりせず、いい意味前向きな意味で「いいね!」と言える関係でありたい。

幸せにするのだろうか?2017/02/07 23:14:21

AIのような先端技術は『倫理』で抑制できるのか?
http://www.huffingtonpost.jp/seaskywind/ai-ethic-control_b_14633524.html?utm_hp_ref=japan

やっかいなというか、生きづらいというか。
人工知能(AI)の誕生は、先端技術の進歩を感じさせるとともに、はたしてそれが人間と同じレベルと考えていいのか、人間が発するのと同じ感情を持った存在として捉えるべきなのか、人工知能を有効に、言い方を変えるなら悪用されないしないためのある程度の制限も必要なのではないか、などといろいろ問題が出てくる。

原発のようにわたしたちは、コントロールできない技術を身につけてしまった。福島にしろチェルノブイリにしろ、遠い未来の世代に大きなツケを負わせてしまったのではないだろうかと思う。
はたして先端技術はわたしたちを幸せにするのだろうか?

違和感以上に怒りを隠せない。2017/02/08 23:26:28

点字や障がい者ディケアなど、学生時代にボランティアをやった経験がある。
この7日にひらかれた文部科学省による「天下り」のあっせんについての衆院予算委員会の集中審議で、文部科学省OBの天下り、まあどういう言い方をしてもいいんだけど、「再就職支援業務をボランティアベースで行う」という言い方に、違和感以上に怒りを隠せない。ボランティアという言葉をバカにしていないか。思い上がりも甚だしい、いいかげんにしろと思ったものだ。

加えてもう一つ怒りを隠せないのは、この文部科学省OBが再就職した明治安田生命保険での顧問報酬について「月2日勤務で1千万円か」という野党国会議員の問いに、このOB自ら「そのとおり」と答えたこと。
たった2日の勤務で1千万円? ずいぶんな報酬だねえ。

ボランティアっていうのは本来、無償であり、見返りを期待しないもの。障がい者や子どもといった人たちに対する、見返りを期待しないかたちで奉仕するというのが本来の意味であるはずだ。
だがこういうケースではたとえ説明であっても比喩であっても、使われる言葉としても使い方としても不適切。

ボランティアという言葉を軽々しく使って欲しくないだけではなく、ボランティア活動に一生懸命取り組んでいる人たち、自分の時間を惜しんででも他人のために尽くそうとしている真摯な人たちに対してもボランティア精神に対しても、失礼な言葉であり態度である。
自分たちを正当化するためにきれいな言葉で糊塗しようという、お役人の思考に怒りを隠せない。

がんとの共生社会2017/02/09 21:46:49

まだまだからだの調子は戻っていない。
腹痛があったり便が出なかったりするだけではなく、からだを激しく動かすのもこわい。卓球を再開するのはまだ先になるだろうし、妻を相手に、フットボールを使った投球練習もまだ先だろうなと。

現役世代ががんになったときの就労問題についてのシンポジウムを特集した新聞記事や、夫婦どちらかががん患者になったときをとりあげた、別の新聞記事を読んだ。

がん患者当事者も、家族も、気持ちのすれ違いやお互いへの配慮がかけたり足りなかったりすることがある。他人である職場や周囲に対してはなおさらで、自分のからだのことをどこまで伝えたらいいのか、伝えるべきなのか悩ましい。

いまのわたしの場合、疲れや腹痛や便が出にくかったりという身体的な問題に加えて、心の問題がこれから出てくるかもしれない。同僚や家族に迷惑をかけたという思い、申し訳ないという後ろめたさも出てくるだろう。

障がい者や妊婦、高齢者との共生でさえまだまだできていないこの国で、以前より致死率が低くなった、早期発見への取り組みが増えた、検診や早期発見は大きな効果があるといっても、がんとの共生社会の実現にははまだまだ、多くの課題があることに目を向けていきたい。

いろんな方法がある幸せ2017/02/10 19:59:31

北海道ほどではないけれど寒さが身にこたえる。

帰宅してから、ハングアウトというビデオチャットで手話を学ぶ。
昔はこんなのがなかったから、手話を学びたかったらろう者と会ってじかに教わるかサークルに入るしかなかった。
複数いろんな方法がある幸せを感じつつ、しっかり使っていきたいものだ。