わたしたちは2016/07/28 23:13:19

昨晩からけさは昨日ほどのからだの震えや不眠を感じることはなかったけれども、それでもやっぱり気は重く、職場の同僚が「海のように笑顔で」と言ってくれるけれども、とてもそんな楽天的な気にはなれなかった。本音を言うなら「冗談も休み休みにして」というところだ。

そんななかだったけれども帰宅して、夕食を済ませてギター教室へ行ってきた。昨日の手話サークルから今度は教わる立場へ。けれど教わるにしても教えるにしても、相手へのリスペクト、敬意が必要だろう。同時に、何かを得たとかやってよかったとか楽しかったというような充実感がなければ、モチベーションは長続きしない。

今日のレッスンでは、ギターコードのチェンジがワンテンポ遅れてしまうことと、弦の押さえ方の2点を教えていただいた。まずはじめの問題は、ストロークの最後の演奏、アップとダウンを交互に弾いて<アップ→ダウン→アップ→ダウン→アップ→ダウン>とするなら、最後の<アップ→ダウン>の<ダウン>のときにコードチェンジをするとタイミングが遅れない。2つめの押さえ方は、手首を曲げて指を前に押し出すように、ということだった。

たしかに聴こえないから理解が遅かったり進ちょく度が遅かったりと、わたしたちは聴こえる人に比べれば「役に立たない」と思われるかもしれない。
相模原の大量殺人事件を起こした容疑者も、障がい者の存在を否定し、国家のために地球人類のために、障がい者がいなくなればいいと優生思想の言動を口にした末、ほんとうに実行してしまった。とても恐ろしいことである。

教会に通うようになったのは北星学園余市高校1年生のクリスマス前だが、宗教の時間でだったかどんな授業だったか忘れてしまったけれども、ある人物の名をいまでも覚えている。

糸賀一雄。
滋賀・草津市の重度障害者入所施設・びわこ学園の創設者であり、「この子らを世の光に」という言葉で福祉、ひいては社会に問いかけていった。
障がい者はあわれみの対象でも、あわれむべき存在でもない。すべての障がい者は「この子らに世の光を」というあわれむべきものではない。
まして社会にて役に立たない、国家や社会にとってじゃま者だから税金の無駄遣いだから皆死ねという存在でもない。
その逆である。わたしたち障がい者が不幸であるなら、社会全体もまた不幸なのだ。
障がい者は本来、光り輝く存在なのだ。生きている意味がありひとりひとりに生きている価値があるのだ。
わたしは「社会にて役に立たない、国家や社会にとってじゃま者だから税金の無駄遣いだから皆死ね」。こういう優生思想や障害者差別に身をもって抵抗するし反対し、はっきりと「No」という。いかなる人物がこういう言動をしたとしても、はっきり拒否する。

「はーとふるはんど」にもダウン症の人がいたし知的障がい者もいる。ステージ上での動きが悪くてもだれも非難したり責めたりしない。みんなが助け合って舞台で演じ表現するのだ。そこには障がいのあるなし、じゃまだとか無駄だとかはない。
わたしも、演技の基礎がないくせに演技をやりたいと言って「はーとふるはんど」に入った。
たいへんなことだけど舞台に立ちたい。ギターも朗読もそう。聴こえないからテンポやリズムがつかめにくい。声と日本手話ではスピードが違うからずれるのにあえてろう者にも楽しんでほしいと、挑戦を続けた。

わたしたちはあわれむべきものではない。
一人ひとりが生きる意味と価値があるのだ。

優生思想や障がい者差別に負けるわけにはいかない。負けては向こうの思うツボだ。
勇気と希望を持って雄々しく生きていきたい。