たしかに「ヒーロー」はいる。2016/04/29 23:42:02

昨日書いた、陰謀論についてもう少し考えてみたい。

バカバカしくも恥ずかしい、ノストラダムスブームにのった遠い昔、10代若いころの思いを、できるだけ消し去りたいくらいなのだけど恥をしのんで(笑)ふりかえりながら書いてみよう。

結局のところあれは、ヒーロー気取りというか自分がなにか英雄でありたいと思ったのだろう。世の中の、大多数の人が知らないことを自分が知っている、あるいは知識の手がかりを知っているという浅はかな優越感であり、ちょっと知っているから多くの人に教えてやろう、というような幼稚なヒーローにもなったかのような思いだったのだろうと、いまだから正確に正直に言える。あのころはそんな気持ちはなく、ただただ「1999年7の月」という本を読んで聞きかじっただけの知識、根拠もないことをうのみにしてアタマでっかちになっていたのだろう。

たしかに巨大震災や911のようなテロはとても個人ではどうすることもできない話であり、個人がどうあがいたり騒いだりしたところでなんになるだろう。
でもその無力さ歯がゆさが、たとえばなにかの知識をもった、地震は自然災害ではなく、アメリカの陰謀で地震兵器があって、そのテストのために用いられたのだという、まことしやかな話を聞いたら、当然誰かに言ってみたい話してみたいという誘惑や衝動がおきてもおかしくはない。
けれどそこでもうひとりの自分がいて「まてよ、この知識はほんとうなのか。もし仮にアメリカがそんなことをやっていたら何のためにやるのか? それははたして合理的なことなのだろうか? 意味があるのか」と考えるべきである。そこまで考えて初めて、冷静に客観的にみつめられる。
そのプロセスや冷静に考える思考を捨てて、突飛な考えが出たらすぐに飛びつくのは浅はかであり愚かなこと。
はっきり言っておくけれど、こういう行動は幼稚なものだ。「痛い」とも言い換えられる。
子どもがヒーローになりたいというのはかわいげがあるし、許される次元だけど、いい年した大人がこういうことを言ったら「アホか」ですまされない。
さきに個人がどうあがいたり騒いだりしたところでなんになるだろう、と書いたとおり、今回や5年前の震災は、驚くばかりのことだ。だからこそ人間の無力さ弱さを感じながら災害に向き合っていくべきなのに、それをせずに陰謀論やミステリーの読みすぎのようなことをいうのは、いわば社会に向かって相手にしてくれという「かまってちゃん」のようなものだろうか。

「不謹慎狩り」という言葉がはやっている。
著名人がネット上で発信するコメントや画像をことごとく批判する現象だそうだ。これも、あまりの衝撃的なことゆえに、災害現場の現状を報道などで見続けると、被災者に共感しすぎて暗い気分になる。ひどくなると、他人が笑ったり普通にしていたりすることにも怒りを感じ始める、共感疲労ということのあらわれなのだろうという解説がある。

ウルトラマンやスーパーマンがいるならきいてみたいねえ。ひどい出来事の連続で疲れませんか、共感しすぎたらどうするんですかって。変身するのも電話ブースに入るのもイヤになりませんかって。

でもたしかに「ヒーロー」はいる。
それはスペシウム光線を出したり目から光熱線を出したり高速で空を飛んだりはしない。もちろん「かまってちゃん」のような幼稚なことはしないし、陰謀論なんてことも口にしない。
そんなことではなく、過剰な「しすぎ」ではない程度で、かつ冷静に他人に共感でき、なおかつ冷静さを保っている人だ。
マスコミや新聞やテレビに出なくても、わたしたちの身近なところに、たしかにヒーローはいる。そしてわたしたちもまた、ヒーローになりえるのだ。