自由は空気のようなものだけれど2016/02/11 23:07:59

お隣の国がミサイルを発射したことの続報など、国際情勢が伝えられている。かの国ではミサイル発射後、幹部の粛清といった血なまぐさいこともあったようだ。

ひるがえって、わたしたちのこの国。
政権内部から「政治的公平性を各放送を繰り返した場合、電波停止を命じる』などという発言が出てきた。

冗談では済まされない。
ミサイルを発射した国のお隣では政府に批判的な発言や報道をすると即座にテレビが遮断される。

この国でもそういうことが起こりかねない。時の政治や政権に都合よい発言しか許されない、権力が発言に介入したり注文をつけたりすることになったりしては、自由な世の中とは言えない。

自由は空気のようなもの。だからこそしっかり意識していかないと、いつどんなきっかけでその自由が壊されるかもしれない。

わたしたちはとても小さなものでしかない2016/02/12 23:36:41

「重力波」発見のニュースには驚かされた。
重力波とは宇宙を構成する物質の振動、と簡単にいうけれど、そして専門家によると「空の上の星も、地球の上の人間を構成する原子も、宇宙の遠くで起きる星の大きさレベルの衝撃によって、いつもほんのちょっとだけ揺れている」のだそうだ。しかしその「ほんのちょっとの揺れ」ゆえに検出が難しいのだという。

それを予言したのが、アルバート・アインシュタイン(1879、3/14 - 1955、4/18)。
一般相対性理論、高校の物理の授業で学んだり聴いたりした記憶があるが、そのなかでアインシュタインが予言されてから100年後の2016年に検出されたという。
100年前だ。とても想像がつかないこととしか言いようがない。

わたしたちの時間も人生も、アインシュタインほど有名でも業績があるわけでもないが、無名のままであったとしても、100年後200年後、何かを残せるだろうか。
残せるかどうか以前に、日々をどれだけ何かを残したかだ。

はるか遠くの宇宙から届いてきた重力波。その広大さと時間と空間のスケールに、わたしたちはとても小さなものでしかない。だからこそ、そのなかでいかによく生きるかだ。

聴導犬ユーザーになりたい2016/02/13 23:14:04

柴犬のキーホルダー(笑)
まるで2カ月先にすっ飛んで行ったような、気温の高い一日。
週末の一日を妻とともに、埼玉県にある日本聴導犬推進協会に行ってきた。

結婚前の、もう20年くらい前になると記憶しているけれど、埼玉県ふじみの市にあるオールドッグセンターという、ほとんどの犬種の訓練所で、聴導犬の訓練風景を見てきた記憶がある。結婚してから妻と再訪したのだが、そのころと風景も場所も異なっていたかもしれない。

なんでそんなところへ行ったかというと、妻とわたしの夫婦ふたりだけではなく、わたしの生活のサポートとして、聴導犬がいたらいいのではないか、という話を昨年11月ごろから妻とするようになった。ペットとしてではなく、わたしの聞こえのサポートであり、動物福祉としても大事なことではないかという話になり、わたしたちの共通の知人夫婦のところに遊びに行った折にペットショップで柴犬を見せてもらったりして、将来の聴導犬ユーザー希望という意志を伝え、聴導犬の推進普及に取り組んできた日本聴導犬推進協会側の説明を聞きたいということになったのだ。

わたしたちの思い考えはあくまでもペットではなく家族であり、聴こえのパートナーとして。同時に動物を同じ生きているいのちとして、最後まで一緒に生きていく仲間として。だから安易なつもりであってはならないし、簡単に今日明日から、というものでもないことも承知していることもお伝えした。
協会側の説明を聞きながら、わたしたちもあらためて認識をもち、ろう者のわたし、聴者の妻共通に聴導犬への理解を深めることができた。

すぐにどうこうという結果にはならないのは初めから分かっていたこと。
じっくり考えて、ほんとうに聴導犬ユーザーになるための心構えや準備などもじっくり怠らずにすすめていきたい。
とても充実した休日だった。

えらい目にあった その①2016/02/14 16:18:13

春一番が吹き荒れた関東地方。
東京も朝から雨と強風で、浦安教会へ行くのが大幅に遅れた。

東京メトロ東西線で日本橋から浦安へ向かう途中、東陽町で下車してくださいという。聞こえないわたしは当然、駅に近づいてから乗客の動きを見て行動した。
降りてからホームに立って、後続の西船橋行きの地下鉄を待った。待てど暮らせど、来るのは東陽町止まりの地下鉄だけ。そのたびにどんどんお客さんが降りて、いっときはホームにあふれんばかりの人数になった。まぁ彼らはしばらくして地下鉄が動かないと判断して地上へ出て都営バスなどに乗り換えたと思うが、浦安には都営バスは運行していない(笑)。4本くらい待っただろうか。ようやく東西線西船橋方面が運行再開で、やっとの思いで乗ることができた。

東陽町駅では聴者へのアナウンスはあったけれど、聴こえないお客さんへの対応は、「?」としかいいようがない。
マスク姿の駅員さんに聞いてもモゴモゴしたマスクからは口の動きは読み取れないし、何を言っているのかわからない。聴こえない人にマスクをして話をしてどうやって聞き取れというのだろう。
緊急時非常時の、聴覚障がい者を含む情報弱者に対する配慮ができていない。平常時ではなく、こういった緊急時非常時のときこそ情報弱者への配慮が試され問われる。
わたしは手話が第一言語だけれども、手話ができなくてもいい。せめてホワイトボードなどで緊急時の状況を書いてホームで掲示ながら歩いてもらうだけでも、ずっと情報が得られる。たしかに改札口に行けば掲示板があってそれをみればいいかもしれないが、ホームを離れるわけには行かない場合もあるし、ホームを離れているあいだに電車が来るかも知れない。
まもなく5年目になる東日本大震災だが、将来起こりうる巨大震災や災害のときにはスマホも通じないかもしれない。そのときにはネットではなくローテク、ホワイトボードでの情報伝達といったローテクが必要になるかもしれない。

えらい目にあった その②2016/02/14 21:13:09

実は浦安駅から教会に行くあいだにもえらい目にあった。
地下鉄が浦安駅に到着したのは午前11時をすぎていた。それからいつものバス停に着いてバスの時間を見たら27分とある。
建物の軒下に身を置いて雨から避けていたら、ビニール傘を2本持った男性が近づいてきた。年は30代くらいだろうか。2本のうち一本は骨が折れて使い物にならない。
その壊れたかさを、あろうことかわたしが雨宿りしている建物のそばに置いて行ったのだ。かさを置いていったところは、マンションの入口になっていてゴミ置き場ではない。
「ここはゴミ捨て場じゃないぞ」と彼に声をかけたのだけど、耳を貸さずにそのまま通り過ぎていった。

妻にも話したら「あきれるねえ。モラルというかマナーがなっていない」と憤慨していた。わたしも同感である。
バス停までの路上でも何本か、折れたビニール傘がゴミ箱や路上に放置されていたのを見た。
ビニールかさは500円と安価な一方、骨組みなどはもろいからすぐに折れてしまう。
それを平気で捨てていくというのはどういう神経の持ち主だろう。

まったくこういうときにこそ人の本性というかほんとうの姿が如実に表れるのだとつくづく実感させられた。

「ゲス」という言葉に思う2016/02/15 22:58:00

「げす」 下種・下衆・下司とも。

(1)身分の低い者。使用人。(2)心の卑しいこと。またその者。

~あと知恵 愚かな者は事後になって知恵が出る
~勘繰り   品性の卑しい者は不必要に気を回して見当違いの邪推          をするものだ
~逆恨み  心の卑しい者は自ら省みることなく、かえって注意訓戒し         てくれたものを恨む

これは広辞苑第6版からの引用である。
昨今話題になっている、ゲス某というバンドのグループと女性タレントの不倫問題で、ゲスというバンド名から考えてみた。

昨日、教会へ行く途中にビニールかさを捨てた若い男性のことを書いたけれど、はたしてわたしもそうだが、どれだけ省みて自分がゲス、ここでいうなら心の卑しいこと。またその者ではないと言い切れるだろうか。
ふりかえればわたしだって不必要に気を回してしまうことがあるし、半世紀も生きてきたら、省みることなく、注意訓戒してくれた人を恨んだことがないとは言えない。

問題は、こういった事件や事故が起きたときにいっせいにバッシングすることがある。まるで彼らをたたくことが社会全体の共通した目的であるかのように。へたをすると一斉に攻撃することで不満不平を解消しているという錯覚思い込みもあるかもしれない。

聖書は、イエスは、罪を犯したという人を糾弾しようとする人々に、では罪を犯したことがない者が、石を投げなさい、と言う。
どんなに立派だと思っている、いや思い込んでいる人ほど傲慢になりやすい。
自分もまた、罪を犯す可能性があるのだという謙虚さを持っていれば、罪を犯した人に対してどうかかわるか、おのずからわかると言えるのだろう。

ショックとやりきれない思いを2016/02/16 23:06:59

週末からの寒さはまだまだ続く。

おととし川崎市の高齢者施設で、入所者3人が高所から転落死した事件があった。
この施設に勤めていた職員が事件にかかわっていたとして逮捕された。

大学時代に高齢者福祉をわずかでも学んだわたしにとって、ショックがある。「虹の手」メンバーと一緒にボランティア演奏のためデイケアホームを訪れるが、職員スタッフの仕事はほんとうにたいへんなもの。逮捕された元職員は「入所者の暴言に腹が立った」と言っているようだが、ストレスやさまざまな思いが重なってのことだろう。

福祉施設にかかわっている人みながこういうわけではない。
一生懸命に障がい者や高齢者のためにと思って働いている人が多い。
けれども人間相手だから思うようにはならないし、ちょっとしたきっかけで虐待につながることがある。京都であった知的障がい者虐待事件もそうだ。

人口減と高齢化。いまの日本は先がバラ色とはとても思えない。
しかし、「生きてきてよかった」と思えるものでありたい。生きていて意味がない人生やいのちはないのだから。

とても大きなショックとやりきれない思いを、感じている。

深刻な問題2016/02/17 23:29:04

昨日書いた、老人ホームの転落死事件は、あらためて福祉現場という職業のたいへんさ過酷さをわたしたちに突きつけている。

私ごとだが四半世紀前、就職活動でいろいろまわった。そのなかに福祉系の仕事もあった。希望を伝えて「でも給料が安いから……」と、考え直したほうがいいよと暗にほのめかされたことをいまも鮮明に覚えている。

もちろんわたしの大学の同期にも、がんばっていまなお福祉施設で働いている人もいる。みんながみんなああいう事件を起こすわけではない。
しかし、待遇や労働環境など、やはり過酷なものである。夜勤になると一睡もできないほど忙しい、という人が多い。

わたしもいつかは高齢者になる。
とても人ごとと済ませられない、深刻な問題である。

聴こえない人のための情報保障2016/02/18 23:14:54

「雨水」
二十四節気のひとつ。空から降るものが雪から雨に変わり、氷が溶けて水になる、という意味。今年は2月19日だそうだ。

聴覚障害者、選挙が身近に 候補者演説など「要約筆記」に報酬OK
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201602/CK2016021802000140.html

手話通訳に加えて要約筆記者にも報酬が支払われることになれば、聴覚障がい者にとっては手話に加えて要約筆記による情報保障が得られ、選挙を身近なものとして理解できる。一方、要約筆記者にとっても、報酬が得られるということで、要約筆記制度の認知にもつながる。

4年前のわたしの結婚式には、パソコン要約筆記とスクリーン投影、磁気ループ、手話通訳、とありとあらゆる方法で情報保障をつくった。ホテル側にとっても初体験で初めてのことばかりだったようだ。

演説会などでスクリーン投影と、手書きやパソコンからのスクリーン投影などをみかけたら、「こういう方法でも聴こえない人のサポートになるのだね」と知ってもらえるとうれしい。

起きていないから大丈夫だとはいえない2016/02/19 23:35:16

インフルエンザの流行が続いている。周囲でも何人か感染しているらしい。
わたしはというと、いまのところ何も起きていない。
起きていないから大丈夫だとは絶対に言い切れない。うがいや手洗いなどの励行で身を守ることはいうまでもない。

起きていないから大丈夫だとはいえない。
それは災害にも言える。
今日お昼に都内、千葉で地震があった。震度3。

いつも夜を迎えて思うのは、あすもまた同じとは限らない、今日起こらなかったからといって明日も起こらないとは保証できないということ。
その日に備えておくことも必要である。