お互いを知るために2015/12/21 23:05:13

先日の叔父の通夜で、久しぶりに再会した親せきらとの語らいがとても楽しかった半面、苦痛も感じた。

そのときに限った話ではない。
聴者ばかりのなかでたったひとりのろう者であるわたしがいるとき、手話通訳がいるならまだしも、そうではないときのほうが圧倒的に多いのだ。
苦痛を説明すると、たとえばみんなが話題を話していて、次の話題に移ったとき、それがわたしにも話せるあるいは関心があるとする。しかしどこで話に入ったらいいのかわからない。タイミングでもわかればいいのだが、聴者はそんなことに気づかず、話をどんどん進めていき、わたしが取り残されてしまうことになる。

で、ろう者が集まっているところでは、こういうときはどうしているのか、というと、話題を転換するときの手話、「ここで話題を変えますよ」とか「話題を変えてもいいですか」と手話で話すことが多い。
具体的に言うと、「ここで話題を変えますよ」という場合は、両手平を縦に、前へ出して横にずらす。「話題を変えてもいいですか」というときは「ここで話題を変えます」と表してから小指をあごにつけて「かまわない?」とやる。「?」が大事で、尋ねている表情を顔に出す。

こういうろう者の会話の文化は、ろう者と接したことがない一般の聴者にとってはなんのことだかわからないだろう。
逆に言えば、ろう者と接してみることで初めてわかる。

見た目ではわかりにくいわたしたちやLGBTといった人たちのことを避けたり「わからないから」といって理解しないままでは、結局のところなんの解決も理解も生まない。
むしろ、わからないからこそ、知ろうとすること。
普通に接していって、ここはどうすればいいの、と聞いてくれるだけでずっと違ってくる。

壁をつくったままではけっして分かり合えない。