多様な社会生き方を認める世の中であってほしい2015/11/04 23:18:39

昨日のバザーで思い出したのは、一年前、その同じ日にひどい肩こりと頭痛、おう吐でバザーを抜けるどころか、教会員の方にお願いして浦安市内の救急病院に運ばれたことだ。妻は予定があったのを切り上げて、浦安まで戻ってきてくれたし、浦安教会の人たちはバザー後、わたしのために祈りを捧げてくださったと、あとできいた。

7月に札幌に帰ったときにもひどい肩こりと頭痛、おう吐があって、形成外科に行ってレントゲンを撮ってもらうなどして骨がずれているらしい、猫背ぎみのからだが、肩こりからおう吐につながっているという。
姿勢矯正ベルトをつけてから、具合が悪くなったのは1回しかない。
気のせいかな、9月のコスモス朗読会でも、シャキっとした姿勢でステージに立てたような気がする。実際は矯正ベルトで肩から背中が引っ張られているからなのだけど。
もし妻がいなかったら、矯正ベルトなんて考えなかっただろうし、この3年間で何度もひどい肩こりと頭痛、おう吐をおこして悩まされていたに違いない。妻がいてくれたことに、こころから感謝している。

結婚して3年目。
幸い大きな病気は、おととしの風邪薬があたったアナフィラキシーショックだけ。あのときは全身が真っ赤になってとてもきつかったのを覚えている。
そんなわたしを支えてくれた妻は、結婚前に姓をどうするか、ときいてわたしの姓でいいと答えたけれど、いまでもわたしは「結婚してからの人生より結婚前の姓でいた時間が長かったのだから、旧姓でいてほしい」と思っている。
わたしのまわりでも通称で通している人や事実婚で通している人もいる。職場では旧姓、それ以外のところでは夫の姓で、と使い分けている人も。
「わが国古来の家父長制度」「家族の一体感」を持ち出す人は夫婦別姓なんて論外と言いたいだろうが、わたしは別姓でも、お互いをしっかり支え合う、愛と信頼といたわりあうことで、家族としてのつながりはつくられると思っている。日々の積み重ねの結果が、家庭を長く続けていくことになるのだと、3年たってあらためて思う。
どういう家庭をつくっていくかはそれぞれ自由であり、国家やだれかが指図したり規定したりするものではないけれど、わたしたちは聴こえない夫と聴こえる妻が家庭をつくり、支配被支配や命令服従隷属という関係ではなく、お互いを大事にし支え合う関係でありたいと思っている。
多様な社会生き方を認める世の中であってほしい。その最小単位としての家族で、夫婦別姓があっていいはずだと思うのは、わたしだけだろうか。

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