信仰をもって生きるからこそ2015/02/10 23:11:33

昨年、洗礼を受けて30年になったことはここでも書いたが、ここ数日取り上げている「イスラム国」やパリの風刺週刊新聞襲撃事件などを通して宗教とはなにか、信仰を持っているわたし自身もあらためて問いを突きつけられているように感じる。

今日の2つの新聞に、興味をそそられる記事があった。
まずひとつは、歴史的な宗教対立がある事実を前に、日本は「無宗教」である。その「無宗教」こそが平和に役立つのではないか、というコラム。
もうひとつは、「イスラム国」がサッカーアジアカップ、イラク-ヨルダン戦を観戦していた10代の13人を射殺したという複数メディアが伝えた報道をもとに、スポーツはなんだろう。西洋スポーツは禁止だという「イスラム国」の論理は、イスラム世界だけの話ではなく、かつて日本も野球などを「敵性競技」としみなした時期があったことだ。ゆえに、わたしたちがスポーツを楽しめるのは平和あってこそ、というコラム。

わたしの好きなスポーツ、アメリカンフットボールとベースボール。
70年前の第2次世界大戦時、日本では「敵性スポーツ」としてプレーが禁じられ、用語や競技名がへんちくりんな日本語に変えさせられた。セーフをよし、アウトはダメ。アメリカンフットボールは米式鎧球と呼ばれていた。「イスラム国」がサッカー観戦を禁じていることを笑ったり批判できる立場にはない。かつて日本も同じようなことをやったのだから。

「無宗教」というのはよく聞く話だ。
しかし、日本が全く宗教とは関係も縁もないかといえば、そんなことはない。これを書く前にNHKテレビは、受験の神様として知られる「湯島天神」に多くの受験生が訪れたことを伝えていた。わたしたちは夫婦ともにキリスト者だから、結婚式も(そして将来いずれやってくる)葬式もキリスト教式でやってほしいとお互いだけでなく公に言っている。しかも会社によっては、物故社員のための招魂祭をするところもあるし、わたしたちが住む地域でも年末年始は神社へ、という方もいらっしゃる。極端なことを言えば、結婚式はキリスト教会で、葬式は仏式で、受験祈願は神社で、というように「なんでもあり」であるのが日本のごく一般的な宗教とのかかわりだ。だからはじめの記者が書いたような「無宗教」は間違いであると思う。

昨年あたりから出版された「イスラム国」をテーマにした本やさまざまな情報から、この過激派組織の指導者は、預言者ムハンマドがイスラム教を唱え始めた7世紀の社会に戻そう、現在の国境は欧米の圧力によるもので容認できない、というのだそうだ。だが一方で彼らは、悲しいことにインターネットを駆使して、あのような残虐な映像をネットに投稿したり、欧米の若者を引きつけたりしている。7世紀はもちろんインターネットなんてなかった。しかもヨーロッパや日本製自動車や現代の武器も使っている。はっきり言って矛盾だといえる。そんなに復古したいのならネットなど使うなと言いたいほどだ。しかし現代文明を利用しないことには宣伝も戦略もできない。やっていることはおかしいと思う。もちろんテロ行為は容認できるわけがない。

結局は、宗教を人間がどう用いるかということ、その一点に尽きる。
イスラム教は「平等と分かち合いの精神」が根底にあるという。キリスト教は「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」と、神により造られたものゆえに、自分だけではなく他者のために生きなさいと教える。

一神教の世界であるイスラム教やキリスト教から見れば、日本の「なんでもあり」は奇異にみえる。一神教の信徒から見ると「自分はこう生きていきたい」という点がみえないというのだ。あなたはどんな信仰を持っていますかと問われて「神社へ行きお寺へも行きます」と答えると「?」とみられる。なぜなら一神教のなかでは神と人が向き合うからだ。なんでもあり、では神と人が向き合う関係ではないと疑問に思われるのだ。

以前にも書いたように、イスラム国はイスラム教ではない。人を殺して暴力で抑えようとしている。宗教を悪用している集団だと。
キリスト教やイスラム教が悪いのではない。宗教を悪用していることが暴力や争いをつくりだしているのだ。
お互いを尊重しあう、それは簡単ではないけれどできないことではない。だのにできないのは、なぜだろう。
あらためて深く問われているのではないだろうか。
日本は「無宗教」の国ではない。宗教はある。欧米や中東とは異なるということだ。
幸いにして日本は中東と戦火を交えた経験がない。対日印象もそこそこいい。それをぶち壊してまで、有志連合に加わる必要があるのか。

少なくとも宗教は自分たちを絶対視しない。他者と自分を相対化する姿勢があってはじめて他宗教からの尊敬を得られる。日本なりのアプローチかかわりで、いい関係をつくることが日本の宗教からもできるのではないだろうか。